前田静良

ひぐらしの記

恐ろしさ、「地震、地震、地震、地震」

「巨人、大鵬、卵焼き」。こちらは、必ずしも不変ではない。「地震、雷、火事、親父」。どちらかと言えばこちらは、不変である。どちらかという条件を付したのは、親父のところが人さまざまに、置き換わるからである。  確かにこのところは、個人感情とは別...
ひぐらしの記

絶えず、脅かされる「命」

睡眠中に地震に襲われた。「助けてくれー」、と叫んでも、神仏は助けるはずもない。身を縮めて、揺れの収まりを待った。命の鼓動を確かめてみる。平常に動いている。八十一歳まで生き延びてきたことは、途轍もなく幸運・果報者なのかもしれない。ただ、その実...
ひぐらしの記

わが身体事情

三月十六日(水曜日)、起き出してきて、パソコンを起ち上げ、しばし机上に頬杖をついている。前面の雨戸開けっ放しの窓ガラスを通して、ほのかに夜明けが訪れている。このところの私は、冬防寒重装備を完全に脱ぎ捨てている。夜具のなかの一つである寝布団は...
ひぐらしの記

あてずっぽうの「人生考」

いまさら言わずもがなのことだけれど、人生と人命は絶えず、「生・老・病・死」という、四苦に脅かされている。さらにこれらに、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」という四つを加えて、「四苦八苦」の苦しみがあるという。これは、お釈...
ひぐらしの記

「文は人なり」、わが文章の評点は「0点」

「文は人を表す」。この成句はわが文章にたいする、証しと戒めである。実際のところは生真面目が勝ちすぎる、いやわが頑固な性格を映して、ユーモアの欠片もない硬い文章である。おのずから自分自身にも、ちっとも面白味がない。このことは飽きるほどわが身に...
ひぐらしの記

わが生涯学習の祟りなのか?

三月十三日(日曜日)、このところの体感温度と気温は、すっかり寒気を遠のけている。独りよがりにほくそ笑んでいたらそれもそのはず、間近に「春分の日」(三月二十一日・月曜日、休祭日)が訪れる。つれて、あんなに待ち遠しく思えていた春は、早や仲春へと...
ひぐらしの記

わが心身に漂う、閉塞感

「東京大空襲」と「東日本大震災」の映像がテレビニュースに相次いだ。歳月を経てもまったく風化や忘却のしようのない、人間界の愚かさと自然界の脅威がもたらした、リアルタイムに観ているような、限りない惨禍の映像だった。  時日を限った二つの映像とは...
ひぐらしの記

「東日本大震災」11周年、わが感慨

このところの私は自然界讃歌を謳い、その様子を文章で綴り続けている。しかしながらこの思いは、必ずしも手放しで称賛しているものではない。いやこの思いには、常に大きな恐怖と陰鬱が付き纏っている。正直なところわが自然界讃歌は、人間界の冷酷と浅ましさ...
ひぐらしの記

寝起きの述懐

もとより文章は、私には手に負えない難物であり、もちろんその作業は、とことん難儀である。それなのに私は、寝起きにあっての脳髄の駆動未だしの中で、なおさらには朝御飯支度前の限られた短い時間にあって、せっつかれた気分で書いている。おのずから殴り書...
ひぐらしの記

平和

夜明けの後に起き出してきた。すると、朝御飯の支度のために、文章を書く平常心と時間を失くしている。おのずからあわてんぼうとなり、二段飛びで階下へ下りる。わが体たらくぶりが身に沁みる。  自然界は、のどかな朝ぼらけを燦燦とそそいでいる。自分の失...