ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
桜、山の賑わい、好季節到来
3月25日(火曜日)。寒気はまったく感じなく、もはや怯えることはない。だからだろうかのんびりと、こんなことを心中に浮かべて起き出している。山の木々は芽吹いて、それぞれの花を咲かし始めている。きのうは東京都の桜の開花宣言があり、テレビ映像を賑わしていた。桜木の下で佇み目を凝らせば、わが家近くの桜も一輪ぐらいは咲いているだろう。山からはまだ枯れ葉は落ちず、道路の掃除は免れている。庭中のツバキの花は、大団円の色艶を増して咲き続けている。この花びらに含む美味しい露蜜を吸いに、山からメジロが飛んで来る。すぐに、メジロをやっかみ追っ払うように、ヒヨドリが後を追う。瞬時、ヒヨドリには憎さ百倍つのるけれど、それでも春を愛(め)でたくなる絵になる光景である。山にはウグイスを筆頭に、名を知らない山鳥たちが、まるで間欠泉のごとく一定の間隔を置いて、鳴き合っている。突然の天変地異さえなければ、山際に住む私にとっては願ってもない、一年じゅうでもっとも好季節の到来にある。
朝日は見えないけれど、のどかに夜明けが訪れている(5:48)。まだ、執筆時間はたっぷりとある。しかし、ここで書き止めにしないでこの先を書けば、いつものマイナス思考の文章を綴ることになる。挙句、せっかくの好気分は殺がれることになる。それを恐れて私は、恥を晒して指止めを決断した。生来の優柔不断の質(たち)の、わが突然の決断を褒めてくれているかのように、ウグイスはエール(応援歌)の鳴き声を高めている。
あれれ! 朝日もまた私に味方して、光り始めている。わが自然界賛歌は、謳歌を極めている。
朝日は見えないけれど、のどかに夜明けが訪れている(5:48)。まだ、執筆時間はたっぷりとある。しかし、ここで書き止めにしないでこの先を書けば、いつものマイナス思考の文章を綴ることになる。挙句、せっかくの好気分は殺がれることになる。それを恐れて私は、恥を晒して指止めを決断した。生来の優柔不断の質(たち)の、わが突然の決断を褒めてくれているかのように、ウグイスはエール(応援歌)の鳴き声を高めている。
あれれ! 朝日もまた私に味方して、光り始めている。わが自然界賛歌は、謳歌を極めている。
厄介な「人生終末病」
3月24日(月曜日)。のどかに春日和の夜明けが訪れています。彼岸がもたらした格好の季節の屈折点なのでしょう。自然界の真髄にふれている思いがいっぱいです。素直にわが不断の自然界賛歌を謳い称えましょう。こんな自然界の恩寵にさずかりながら私は、人生終末病に罹り、(もう書けない、書きたくない)症状に陥っています。こんな気分で起きれば、パソコンを起ち上げる気にはなれず、起きて長く悶々としていました。「ひぐらしの記」は、ここで打ち止めになるか。いや、まだ続けるには何かを書かなければと、葛藤に苛まれていました。まさしく、人生終末病という気狂いの症状です。
葛藤の挙句、継続を断たないためにはと、このことが脳裏に浮かびました。それは、途中書いたことのある大相撲の結末です。きのう千秋楽を迎えた大相撲春場所(大阪場所)は、途中の予想どおり大関・大の里対平幕・高安との決戦になりました。そして、二人の優勝決定戦までもつれて、大の里が優勝を果たしました。大の里の優勝は3度目、大関なっては初めての優勝です。大器は横綱へ向かって、順調に正規軌道を踏んでいます。このことにわが関心事を一つ加えて、崩落し続ける心に鞭を入れます。
今週(28日、金曜日)からいよいよ、プロ野球の今シーズンの公式戦が開幕します。わがファンとする阪神タイガースへの応援は、すでに臨戦態勢がととのっています。きょうは十数分、こんな文章を書いて、指止めいにします。人生終末病の病巣は身体には無く、名医さえ手のつけようのない心中の深奥です。だから自分自身の処方箋、すなわち自己発奮、克己心を奮い立たせるより、ほかに治癒の手立てはありません。自分自身との闘いですから、頑張るつもりです。
文章全体を大沢さまに削除依頼するかどうかで、迷っています。大空はいっそう明るんでいます。ウグイスが朗らかに鳴いています。私は泣きたい気持ちを抑えています。
葛藤の挙句、継続を断たないためにはと、このことが脳裏に浮かびました。それは、途中書いたことのある大相撲の結末です。きのう千秋楽を迎えた大相撲春場所(大阪場所)は、途中の予想どおり大関・大の里対平幕・高安との決戦になりました。そして、二人の優勝決定戦までもつれて、大の里が優勝を果たしました。大の里の優勝は3度目、大関なっては初めての優勝です。大器は横綱へ向かって、順調に正規軌道を踏んでいます。このことにわが関心事を一つ加えて、崩落し続ける心に鞭を入れます。
今週(28日、金曜日)からいよいよ、プロ野球の今シーズンの公式戦が開幕します。わがファンとする阪神タイガースへの応援は、すでに臨戦態勢がととのっています。きょうは十数分、こんな文章を書いて、指止めいにします。人生終末病の病巣は身体には無く、名医さえ手のつけようのない心中の深奥です。だから自分自身の処方箋、すなわち自己発奮、克己心を奮い立たせるより、ほかに治癒の手立てはありません。自分自身との闘いですから、頑張るつもりです。
文章全体を大沢さまに削除依頼するかどうかで、迷っています。大空はいっそう明るんでいます。ウグイスが朗らかに鳴いています。私は泣きたい気持ちを抑えています。
劇変、彼岸明け
3月23日(日曜日)。のどかに春彼岸の夜明けが訪れている。わが人生において、神様をあて(頼り)にしたことなど、たったの一度さえない。何度か硬貨を賽銭箱に投げ入れたけれど、ご利益にさずかった験(ためし)はこれまた一度もない。一方、これまでのわが人生において、自然界において無償でもっとも頼りにできたのは、中日(ちゅうにち)を挟んで「春秋の彼岸(七日)」にある。「寒さ暑さも彼岸まで」、季節変わりを見事に叶えるからである。ことしもまた予期どおり、春彼岸の恩恵に授かり、彼岸前までの天候不順を正して、季節は本来の春へ劇変した。神様要らずの彼岸のもたらす、まさしく自然界の恩寵である。春彼岸を境にして、ようやく待望していた陽春の訪れにある。まさに、頃は好し。
ところがこれに反し、終末人生を生きる私は、それにともなう困惑や心痛に陥り、平常心を失くしている。この確かな顕れは、心が歪(ゆが)んで文章が書けない状態にある。このせいで、きのうは文章が書けず、休んだ。きょうもこんなことを書くようでは、きのうの二の舞にある。やはり書かずに、休んだほうが良かったのかもしれない。だけど、書かずにおれなかったのは、彼岸を崇める心情のほとばしりによるものだった。このことだけを書いて、この先は書けずじまいである。
終末人生の難事を克服できるかどうか、やはり自己発奮に縋るより便法はない。彼岸明け、朝日がキラキラ光っている。
ところがこれに反し、終末人生を生きる私は、それにともなう困惑や心痛に陥り、平常心を失くしている。この確かな顕れは、心が歪(ゆが)んで文章が書けない状態にある。このせいで、きのうは文章が書けず、休んだ。きょうもこんなことを書くようでは、きのうの二の舞にある。やはり書かずに、休んだほうが良かったのかもしれない。だけど、書かずにおれなかったのは、彼岸を崇める心情のほとばしりによるものだった。このことだけを書いて、この先は書けずじまいである。
終末人生の難事を克服できるかどうか、やはり自己発奮に縋るより便法はない。彼岸明け、朝日がキラキラ光っている。
春恒例の「ふるさと便」
3月21日(金曜日)。春眠暁を覚えず。風雨まったくなく、のどかに晴れた夜明けが訪れている。人間界に対する、春彼岸の粋なおもてなしと言えそうである。それなのに私は、書く気分なく起き出している。しかし、格好の気分転換を兼ねて、このことだけは書いて置こうと思い、パソコンを起ち上げている。それは、わが固有の春到来の徴(しるし)でもある。
きのう、毎年恒例の「ふるさと便」が宅配されて来た。送り主は、ふるさとのフクミ義姉亡き後を引き継いで、隣町(菊池市)に住む次女(姪っ子)である。段ボール箱を開けると、姪っ子が漬けた「高菜漬け」がワンサと押し込まれていた。さらにはたぶん、最寄りの「道の駅」で買ったのであろうか、手作りの味噌類や菓子が詰まっていた。ふるさと便の特徴は味を占める前に、今は亡き長兄や義姉をはじめとして諸々の御霊を偲び、かぎりなく郷愁が沸き立つことである。わが生存中にあっては、姪っ子からのふるさと便は絶えることはないであろう。このことからこののちのふるさと便は、この先ごく短い期限付きである。ゆえに愛(いと)おしさが増して、このことを書き忘れては「罰が当たる」ものである。
きょうは書くまでもない自己都合の文章を書いて、恥を晒している。だけど、一向に構わない。朝日はいっそう輝きを増している。私は望郷をつのらせている。寝起きの気分は安らいでいる。
きのう、毎年恒例の「ふるさと便」が宅配されて来た。送り主は、ふるさとのフクミ義姉亡き後を引き継いで、隣町(菊池市)に住む次女(姪っ子)である。段ボール箱を開けると、姪っ子が漬けた「高菜漬け」がワンサと押し込まれていた。さらにはたぶん、最寄りの「道の駅」で買ったのであろうか、手作りの味噌類や菓子が詰まっていた。ふるさと便の特徴は味を占める前に、今は亡き長兄や義姉をはじめとして諸々の御霊を偲び、かぎりなく郷愁が沸き立つことである。わが生存中にあっては、姪っ子からのふるさと便は絶えることはないであろう。このことからこののちのふるさと便は、この先ごく短い期限付きである。ゆえに愛(いと)おしさが増して、このことを書き忘れては「罰が当たる」ものである。
きょうは書くまでもない自己都合の文章を書いて、恥を晒している。だけど、一向に構わない。朝日はいっそう輝きを増している。私は望郷をつのらせている。寝起きの気分は安らいでいる。
春分の日
「春分の日」(3月20日・木曜日)。夜明けて雨はなく、まもなく朝日が昇りそうである。この兆しは昼間へ向かうにしたがって、確かなものになろう。なぜなら、きょうの鎌倉地方は、晴れの予報にある。きのうはときたまく雪が舞う、雨のち晴れの寒い一日だった。きょうは、春彼岸の中日「春分の日」である。これまでの天候不順は、きょうを境にしてしあさっての彼岸の明け日(23日)頃には、完全終結になるだろう。
日本じゅうの野球ファンが堪能した、日本におけるアメリカ・大リーグの開幕試合の二戦は、おととい、きのうで無事に終えた。対戦チームはドジャース対カブスで、二戦ともドジャースの勝利で終えた(東京ドーム)。ドジャースには日本人選手3人、すなわち大谷選手、山本投手、佐々木投手が所属している。一方、カブスには2人、鈴木選手と今永投手が所属している。5人とも開幕試合に出場が叶い、日本の国へ錦を飾って、野球ファンらの万雷の歓呼を浴びた。中でも記録を残したのは、大谷選手は開幕戦ホームラン1号、山本投手は初戦、シーズン初勝利に輝いた。盛況のうちに無事に終わった、大リーグ所属の日本人選手の晴れ舞台だった。
野球にかかわり次に訪れるのは、日本のプロ野球の開幕戦(3月28日・金曜日)である。選抜高校野球は、すでに始まっている(阪神甲子園球場)。物事には始まりがあれば終わりがある。世界事情で、終わってほしいことの筆頭は戦禍である。今週末から来週にかけて、ウクライナとロシアの停戦の行くヘには、固唾を呑むところである。翻って日本事情で終わりが見えないのは、物価高と商品券騒動で発した政界の混乱である。
夜明けは朝に変わり、大空は日本晴れを映してキラキラ輝いている。予期どおり彼岸明けあたりから、本来の春日和になりそうである。季節は早や3月から4月へ向かい、桜便りをたずさえて百花斉放の春爛漫となる。学び舎は卒業式から入学式へ移り、実業界もまた年度替わりや人事異動の季節で大わらわにある。「春分の日」にちなんで、世相を思うこと数多(あまた)である。
日本じゅうの野球ファンが堪能した、日本におけるアメリカ・大リーグの開幕試合の二戦は、おととい、きのうで無事に終えた。対戦チームはドジャース対カブスで、二戦ともドジャースの勝利で終えた(東京ドーム)。ドジャースには日本人選手3人、すなわち大谷選手、山本投手、佐々木投手が所属している。一方、カブスには2人、鈴木選手と今永投手が所属している。5人とも開幕試合に出場が叶い、日本の国へ錦を飾って、野球ファンらの万雷の歓呼を浴びた。中でも記録を残したのは、大谷選手は開幕戦ホームラン1号、山本投手は初戦、シーズン初勝利に輝いた。盛況のうちに無事に終わった、大リーグ所属の日本人選手の晴れ舞台だった。
野球にかかわり次に訪れるのは、日本のプロ野球の開幕戦(3月28日・金曜日)である。選抜高校野球は、すでに始まっている(阪神甲子園球場)。物事には始まりがあれば終わりがある。世界事情で、終わってほしいことの筆頭は戦禍である。今週末から来週にかけて、ウクライナとロシアの停戦の行くヘには、固唾を呑むところである。翻って日本事情で終わりが見えないのは、物価高と商品券騒動で発した政界の混乱である。
夜明けは朝に変わり、大空は日本晴れを映してキラキラ輝いている。予期どおり彼岸明けあたりから、本来の春日和になりそうである。季節は早や3月から4月へ向かい、桜便りをたずさえて百花斉放の春爛漫となる。学び舎は卒業式から入学式へ移り、実業界もまた年度替わりや人事異動の季節で大わらわにある。「春分の日」にちなんで、世相を思うこと数多(あまた)である。
春の恩寵にすがる「謹慎」
3月19日(水曜日)、夜明けてシトシト雨が降っている。まもなく、雨を遠のけて朝日が昇りそうな兆しにある。だけど、それは誤魔化しで、叶いそうにない。なぜなら、きょうの鎌倉地方の昼間は雨の予報である。
きのうは文章とは言えない、無様で幼稚な「綴り方(作文)」を書いてしまった。これに懲りてかつ恥じて、またしても謹慎を余儀なくしている。
これまでの私は、春の季節にたいし、恨みつらみのかぎりを言い尽くしてきた。それなのにきょうの私は、春の雨に救われて心を癒している。挙句、継続文の足しになることを願う、わが浅ましい欲の深さである。
ウグイスが高音で鳴いている。彼岸が過ぎれば桜便りが相次いで来る。私の萎えた心は、広く自然界の恩寵(おんちょう)に救われている。
きのうは文章とは言えない、無様で幼稚な「綴り方(作文)」を書いてしまった。これに懲りてかつ恥じて、またしても謹慎を余儀なくしている。
これまでの私は、春の季節にたいし、恨みつらみのかぎりを言い尽くしてきた。それなのにきょうの私は、春の雨に救われて心を癒している。挙句、継続文の足しになることを願う、わが浅ましい欲の深さである。
ウグイスが高音で鳴いている。彼岸が過ぎれば桜便りが相次いで来る。私の萎えた心は、広く自然界の恩寵(おんちょう)に救われている。
「笑わば笑え」
3月18日(火曜日)。朝日が輝いている。ウグイスが鳴いている。きのうは「春彼岸の」の入り日だった。北の地方にはきょうもまた雪が降っていそうだけれど、鎌倉地方は晴れの夜明けにある。ただし、気象庁の予報によれば夕方あたりから、関東甲信地方にも降雪予報が出ている。だとしたら夜明けの晴れは、天界を拝みたくなるほどにありがたいものなのかもしれない。いまだに、本来の春の季節に背く、日本列島の自然界模様である。
私は目覚めて数時間は大袈裟だけれど、(もう書けない、書きたくない)心境に脅かされ、あるいは魘されて、目は爛々として寝そべっていた。哀れ、先ほどまでのわが現実の姿である。おのずからきょうは、書くつもりなく起き出している。ところが、書いている。書けば、数分間のみすぼらしい殴り書きである。恥を晒して、ここで書き止めである。「笑わば笑え」の心境にある。私は、二日続きの長文の償いと思っている。人間に先立ち、ウグイスが鳴いて、笑っている。
私は目覚めて数時間は大袈裟だけれど、(もう書けない、書きたくない)心境に脅かされ、あるいは魘されて、目は爛々として寝そべっていた。哀れ、先ほどまでのわが現実の姿である。おのずからきょうは、書くつもりなく起き出している。ところが、書いている。書けば、数分間のみすぼらしい殴り書きである。恥を晒して、ここで書き止めである。「笑わば笑え」の心境にある。私は、二日続きの長文の償いと思っている。人間に先立ち、ウグイスが鳴いて、笑っている。
心の和む、春の朝
3月17日(月曜日)、5:37。薄っすらと夜が明けている。雨は止んでいる。大空は明るみかけている。やがて、朝日がお目見えしそうである。きょうの鎌倉地方は、晴れの予報にある。予報を聞いて、春(とりわけ天候)に対するわが腹立ちは、いくらか収まりかけている。春の季節はすでに中旬までを過ぎて、今週から下旬へ向かっている。それなのにこれまでの天候は、極め付きの悪天候に見舞われ続けていた。84年もこの世に生きていれば私は、春の天候不順(嘘つき)には十分すぎるほどに慣れっこである。しかしなんだかな……、ことしほど悪天候に戸惑い、余計に腹立たしさをおぼえた年は無いように思えている。このこともあってきのうの文章には、内容はそっちのけにして早々に、「春は詐欺師……」の表題を付けてしまった。挙句、このあとの文章は「草臥(くたび)れ儲け」さえにもならない文章を、長々と書いてしまった。もちろん私は、「儲けなく」草臥れはてていた。唯一の安堵は、見た目長い文章など読んでくださる人はいないはずと、思えていたことだった。
確かに私は、長い文章に懲りていた。だから、きょうの文章は、休むつもりで寝ていた。ところが、「朝が来た」という人間の習性にしたがって、起きてしまった。起きたからにはパソコンを起ち上げなければならないのは、わが固有の習性である。しかし、いつものようにネタ無しのパソコンの起ち上げを食らっている。だけど、恐れていた悪天候の打ち止めを書けたことには、十分すぎるほどの望外の幸せ感を抱いている。いやこのことだけで、パソコンを起ち上げた冥利(価値)は十分にある。だから、この先に書くことは、書くまでもない付け足しにすぎない。
私は、今週の世の中の出来事を浮かべている。一つは、ウクライナとロシアの停戦に向けての、折り合い着き方である。一つは、石破総理にまつわる政界の動向である。これら二つの胡散臭いことを除けば唯一、スポーツ界においてわが心の躍る関心事がある。一つはあすとあさってに予定されている、アメリカ大リーグの日本における開幕戦である。試合はドジャース対カブス戦(東京ドーム)である。そして、週末最終日(23日、日曜日)には、現在行われている大相撲春場所(大阪場所)の千秋楽がある。優勝の行くヘは、大関・大の里と平幕・高安に絞られている。
書くつもりのない文章をまたもや書き殴っていたら、明るく朝日が昇り始めている(6:34)。心の和む、春の朝である。この先は桜便りを引き連れて、これまでの悪天候のつぐないを望むところである。
確かに私は、長い文章に懲りていた。だから、きょうの文章は、休むつもりで寝ていた。ところが、「朝が来た」という人間の習性にしたがって、起きてしまった。起きたからにはパソコンを起ち上げなければならないのは、わが固有の習性である。しかし、いつものようにネタ無しのパソコンの起ち上げを食らっている。だけど、恐れていた悪天候の打ち止めを書けたことには、十分すぎるほどの望外の幸せ感を抱いている。いやこのことだけで、パソコンを起ち上げた冥利(価値)は十分にある。だから、この先に書くことは、書くまでもない付け足しにすぎない。
私は、今週の世の中の出来事を浮かべている。一つは、ウクライナとロシアの停戦に向けての、折り合い着き方である。一つは、石破総理にまつわる政界の動向である。これら二つの胡散臭いことを除けば唯一、スポーツ界においてわが心の躍る関心事がある。一つはあすとあさってに予定されている、アメリカ大リーグの日本における開幕戦である。試合はドジャース対カブス戦(東京ドーム)である。そして、週末最終日(23日、日曜日)には、現在行われている大相撲春場所(大阪場所)の千秋楽がある。優勝の行くヘは、大関・大の里と平幕・高安に絞られている。
書くつもりのない文章をまたもや書き殴っていたら、明るく朝日が昇り始めている(6:34)。心の和む、春の朝である。この先は桜便りを引き連れて、これまでの悪天候のつぐないを望むところである。
春は詐欺師、正直者の私は騙される
「16日(日)は西日本~東日本の太平洋側を中心に雨や風が強まり、荒れた天気となるでしょう。東日本の山沿いでは湿った雪となり、東京都心は日中も6℃くらいとダウンコート必須の厳しい寒さに。17日(月)は道東を中心に大雪のおそれ。18日(火)~19日(水)は再び広く雨や雪で、九州~関東でも最高気温は10℃前後と冬の寒さ。春本番はいつから?」(tenki.jp)」。3月16日(日曜日)。
寝起きにあってもう、シトシト雨が降り続いている。この先、雨は弱まることなくなおいっそう、強まりながら長く降り続けそうである。意地悪どころか詐欺師へ成り下がった春は、遠ざかっていた寒気までも連れ戻している。ゆえに現在の私は、腹立たしさの坩堝(るつぼ)の中にある。そのせいかきょうは、文章を綴る前に上記の表題だけが先に決まった。だから、これから書く文章は、表題とはまったく異にしてチグハグである。それでも恥晒しに思えないのは、ネタ無しのつらさである。
このところの掲示板には三者様のおりなす、食べ物の嗜好(主にカップ麺)の話題が沸騰している。私の場合、これらの談議に加わることには話題に背きそうで、これまで意図して避けてきた。さらには嗜好自体が異なり、話題への「参加の資格はなし」とも、決め込んでいた。しかし、きょうはネタ無しのせいで、余儀なく話題の端(はし)への便乗を試みている。
わが子どもの頃はまだいくらかの戦時中、そして終戦後は、日本の国の復興の真っ只中にあった。私の周囲は、近くでは里山、遠くは国有林の山だらけだった。見渡す眺めは段々畑、近場の平地は田畑広がる鄙びた田舎育ちである。日常生活における唯一の取り柄は、自作の米、麦、蕎麦、野菜、芋類、さらには筍、椎茸などに至るまで、自給自足の生活で成り立ち、生活費(金)の費消をともなわないことだった。言葉を変えれば貧乏暮らしとは言えないまでも、質素な暮らし向きだった。おのずから、慣れっこになっていた。明けても暮れても母の手作りのレシピ(献立)には、これらを食材にするものばかりが食卓にのぼった。しかし、私も含めてだれもが、不平や不満タラタラなく、和気藹藹に鱈腹たべていた。しかしながら私の場合は、当時の食の祟りがトラウマ(精神的外傷)となって、現在(84歳)のわが食生活を脅かしているものはある。今では旅人たちに人気の「だごじゅる」(小麦粉練りの麵の入ったスイトン)は、当時のわが家には必ず三度の食事に現れた。夏季の食卓には来る日も来る日も、ソーメンを啜った。父は、ソーメンの間隙を縫って食卓へ上る、母が手打ちのウドンやソバも好んで食べた。ところが、私は好きになれず無理矢理食べた。
私は米(白御飯)一辺倒だった。当時の時節柄母は、ときには世人からの非難逃れに御飯に、麦、粟、大根、カライモ(サツマイモ)など入れた。しかし、水車を回して精米業を生業(なりわい)とするわが家は、おおかた白御飯にありついていた。米には普段の御飯を成す粳米(うるちまい)と、赤飯、ぼたもち、餅などに用いられる糯米(もちまい)がある。双方の米を用いて母は、手作りのメニュー(料理)に日夜、勤(いそ)しんでいた。
現在、わが夫婦の食生活は、ほぼ白御飯一辺倒である。しかしこれには、罪がともなっている。妻の場合は、麺類をも大好物にしているからである。私の場合は、麺類は無くても一向に構わない。だからと言って、まったく嫌いでもない。独り買い物のおりにはたまに、「日高屋」の「中華そば」を食べている。わが家にはもっぱら、私のために「日清のカップヌードル」を買い置きしている。もちろんケチや安価のせいではなく、これらは美味いからである。私は、妻がうどん屋や蕎麦屋へ入るのは拒まない。ウドンは、「かけウドン」なら食べてもいいからである。ソバは、「ざるそば」なら好んで食べている。妻は、スパゲティー料理も大好きである。だからたまに、妻に引率されてこちらの店にも入る。ところがこの店にだけは、私の食べたいものはない。やむなく私は、妻が食べ終えるのを傍らで待っている。
あれれ! 長い書き殴りになってしまった。ここでパソコンは、強制ストップである。恥を晒しても、悔いるところはない。だれも読まない、はずだからである。
寝起きにあってもう、シトシト雨が降り続いている。この先、雨は弱まることなくなおいっそう、強まりながら長く降り続けそうである。意地悪どころか詐欺師へ成り下がった春は、遠ざかっていた寒気までも連れ戻している。ゆえに現在の私は、腹立たしさの坩堝(るつぼ)の中にある。そのせいかきょうは、文章を綴る前に上記の表題だけが先に決まった。だから、これから書く文章は、表題とはまったく異にしてチグハグである。それでも恥晒しに思えないのは、ネタ無しのつらさである。
このところの掲示板には三者様のおりなす、食べ物の嗜好(主にカップ麺)の話題が沸騰している。私の場合、これらの談議に加わることには話題に背きそうで、これまで意図して避けてきた。さらには嗜好自体が異なり、話題への「参加の資格はなし」とも、決め込んでいた。しかし、きょうはネタ無しのせいで、余儀なく話題の端(はし)への便乗を試みている。
わが子どもの頃はまだいくらかの戦時中、そして終戦後は、日本の国の復興の真っ只中にあった。私の周囲は、近くでは里山、遠くは国有林の山だらけだった。見渡す眺めは段々畑、近場の平地は田畑広がる鄙びた田舎育ちである。日常生活における唯一の取り柄は、自作の米、麦、蕎麦、野菜、芋類、さらには筍、椎茸などに至るまで、自給自足の生活で成り立ち、生活費(金)の費消をともなわないことだった。言葉を変えれば貧乏暮らしとは言えないまでも、質素な暮らし向きだった。おのずから、慣れっこになっていた。明けても暮れても母の手作りのレシピ(献立)には、これらを食材にするものばかりが食卓にのぼった。しかし、私も含めてだれもが、不平や不満タラタラなく、和気藹藹に鱈腹たべていた。しかしながら私の場合は、当時の食の祟りがトラウマ(精神的外傷)となって、現在(84歳)のわが食生活を脅かしているものはある。今では旅人たちに人気の「だごじゅる」(小麦粉練りの麵の入ったスイトン)は、当時のわが家には必ず三度の食事に現れた。夏季の食卓には来る日も来る日も、ソーメンを啜った。父は、ソーメンの間隙を縫って食卓へ上る、母が手打ちのウドンやソバも好んで食べた。ところが、私は好きになれず無理矢理食べた。
私は米(白御飯)一辺倒だった。当時の時節柄母は、ときには世人からの非難逃れに御飯に、麦、粟、大根、カライモ(サツマイモ)など入れた。しかし、水車を回して精米業を生業(なりわい)とするわが家は、おおかた白御飯にありついていた。米には普段の御飯を成す粳米(うるちまい)と、赤飯、ぼたもち、餅などに用いられる糯米(もちまい)がある。双方の米を用いて母は、手作りのメニュー(料理)に日夜、勤(いそ)しんでいた。
現在、わが夫婦の食生活は、ほぼ白御飯一辺倒である。しかしこれには、罪がともなっている。妻の場合は、麺類をも大好物にしているからである。私の場合は、麺類は無くても一向に構わない。だからと言って、まったく嫌いでもない。独り買い物のおりにはたまに、「日高屋」の「中華そば」を食べている。わが家にはもっぱら、私のために「日清のカップヌードル」を買い置きしている。もちろんケチや安価のせいではなく、これらは美味いからである。私は、妻がうどん屋や蕎麦屋へ入るのは拒まない。ウドンは、「かけウドン」なら食べてもいいからである。ソバは、「ざるそば」なら好んで食べている。妻は、スパゲティー料理も大好きである。だからたまに、妻に引率されてこちらの店にも入る。ところがこの店にだけは、私の食べたいものはない。やむなく私は、妻が食べ終えるのを傍らで待っている。
あれれ! 長い書き殴りになってしまった。ここでパソコンは、強制ストップである。恥を晒しても、悔いるところはない。だれも読まない、はずだからである。
春は気まぐれ、私も気まぐれ
岩手県大船渡市の山火事は、すでに鎮火した。春3月、初っ端の天候不順は、ようやく正常に復している。風邪とそれにともなう高熱共に収束し、わが体調もまたきのうから平常にある。3月半ばを迎えて、日本列島のあちこちにはのどかに桜便りが沸き立ち始めている。こんな好日にあってきのうのメディアの報によれば、政界なかんずく石破総理自身が火種を付けて、この先大火事までに燃え盛りそうである。
世界事情は混沌の最中にある。とりわけ、ウクライナとロシアの戦争は、停戦(火消し)に向けて胸突き八丁にある。日本にすれば経済活動(報復関税など)で、恐怖に晒されている。だから私は、政界(与野党)にたいし、「しっかりしてくれよ!」と、遠吠えしたくなっている。
この時刻(3月15日・土曜日、5:07)にあっては、いまだきょうの夜明け模様を知ることはできない。しかし、きのうの気象予報士の予報によれば、きょうの鎌倉地方はこのところの好天候を引き継いで、晴れの予報にある。きのうからわが家では暖房器具、私には防寒着が不要になっている。全国的にもようやく、春本来の好季節の訪れ模様にある。
起き立てのわが心中には、この時期にさずかる郷愁が膨らんでいる。ふるさとに存在する「相良観音」(子授かり観音様)は、15日から18日までの三日間は春季恒例祭で、近郊近在の人出を交えて大賑わいになる。子どもの頃のこの日にあっての私は、観音様へは行きつかず参道止まりで、手の平に硬貨を握りしめて、ニッキ水、ラムネ、綿菓子などに目を凝らしていた。
きのうの好天気は、わが夫婦に上等の異変をもたらした。風邪の治りぐらいで、快気祝いをするつもりなどさらさらなかった。しかしながらそれに匹敵する、いやそれを超えるほどの特等(最上)のしでかしを演じていた。すなわち、二人して初めてカラオケボックスに入り(約1時間半、1260円)、演歌の練習を試みた。その帰りには消費税抜きで、超特上の寿司二折(3000円)を買った。夕方のせいで一折、300円引きの値札に付け替えられていたのである。普段であれば尻込みする寿司(値段)である。自分だけなら一つは、稲荷寿司(360円)でもよかった。けれど、値引き釣られてかつ、「パパも買いなさいよ」という妻の言葉にうなずいて、お金を張り込んだのである。
あれれ、雨はないものの風の強い、曇り空の夜明けが訪れている。
世界事情は混沌の最中にある。とりわけ、ウクライナとロシアの戦争は、停戦(火消し)に向けて胸突き八丁にある。日本にすれば経済活動(報復関税など)で、恐怖に晒されている。だから私は、政界(与野党)にたいし、「しっかりしてくれよ!」と、遠吠えしたくなっている。
この時刻(3月15日・土曜日、5:07)にあっては、いまだきょうの夜明け模様を知ることはできない。しかし、きのうの気象予報士の予報によれば、きょうの鎌倉地方はこのところの好天候を引き継いで、晴れの予報にある。きのうからわが家では暖房器具、私には防寒着が不要になっている。全国的にもようやく、春本来の好季節の訪れ模様にある。
起き立てのわが心中には、この時期にさずかる郷愁が膨らんでいる。ふるさとに存在する「相良観音」(子授かり観音様)は、15日から18日までの三日間は春季恒例祭で、近郊近在の人出を交えて大賑わいになる。子どもの頃のこの日にあっての私は、観音様へは行きつかず参道止まりで、手の平に硬貨を握りしめて、ニッキ水、ラムネ、綿菓子などに目を凝らしていた。
きのうの好天気は、わが夫婦に上等の異変をもたらした。風邪の治りぐらいで、快気祝いをするつもりなどさらさらなかった。しかしながらそれに匹敵する、いやそれを超えるほどの特等(最上)のしでかしを演じていた。すなわち、二人して初めてカラオケボックスに入り(約1時間半、1260円)、演歌の練習を試みた。その帰りには消費税抜きで、超特上の寿司二折(3000円)を買った。夕方のせいで一折、300円引きの値札に付け替えられていたのである。普段であれば尻込みする寿司(値段)である。自分だけなら一つは、稲荷寿司(360円)でもよかった。けれど、値引き釣られてかつ、「パパも買いなさいよ」という妻の言葉にうなずいて、お金を張り込んだのである。
あれれ、雨はないものの風の強い、曇り空の夜明けが訪れている。