ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

私のゴールデンウイーク

 4月26日(金曜日)。また、朝が来ている。しかし、朝模様は必ずしも一様ではない。気象だけでも、晴れ、雨、曇り、強風、嵐を元に、様々な変化をともない、朝が訪れる。山ではコジュケイとウグイスが、高音で鳴き合いを演じている。ところが私は、日替わりにあっても、起きては日々同じような文章を書いている。このことでは私自身飽き足らず、おのずから自己嫌悪に陥っている。こんな気分を免れるには、確かに文章を書かなければ済むことではある。もちろんそれは承知で、常々(もう、書くまい!)と、決意寸前にある。しかし一方、これまた常々、こんな脅しに苛まれている。すなわちそれは、(書かなければ、おまえは生きる屍同然ではないか!)。これにもまた、十分承知するところがある。挙句、それを恐れて書いている。身も蓋もないことを書いてしまい、自分自身に詫びて、ご贔屓のご常連の人様へ詫びている。
 山は緑を深めている。あすから、先駆けのゴールデンウイークに突入する。物見遊山、手近なところで「鎌倉めぐり」の人の往来が激しくなる。それに備えてきょうの昼間は、人気の「天園ハイキングコース」へ向かう、わが家周りの道路をしなければならない。ウグイスはすでに春先のトレーニングを終えて、行楽シーズンに備えて、日々、本鳴きを高めている。わが家では厄介きわまりない山に棲みつくリスは、近郊近在から出向くハイカーにとっては、旅気分の一興を成して存在価値を高める。これらに交じり私にも、鎌倉めぐりの人たちを歓迎する一員の自覚はある。ならば気分を高めて、道路で出会えば明るい挨拶を心掛けなければならない。それにはまずは、こんな気概のない文章を書く気分を一掃しなければならない。
 人の世は、自然界の恵みを満喫する好季節の到来である。私も人の子、省(はぶ)かれず便乗した気分山々である。私のゴールデンウイークは、萎えている気分の立て直しが先決である。ゴールデンウイーク先駆けの朝は、のどかに晴れた旅日和である。

気分滅入る、夜明け

 4月25日(木曜日)。きのう、一日中ふり降り続いていた雨は止んでいる。しかし、朝日の見えない曇り空の夜明けが訪れている。予報によれば時を追って、晴れになるだろう。きのうは、雨をともなった季節外れの寒さにとことん往生した。だから、きょうの晴れの予報には心待ちする思いがある。
 昨夜の阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦は、途中降雨による中断もあって、10時近くに終了した。試合開始は夕方の5時半だった。私は妻と共に延々、4時間半ほど見入った。試合結果は5対3で、タイガースが勝利した。しかし、ジャイアンツに勝ったときのような気分のいい勝利感は味わえなかった。なぜなら、ベイスターズはタイガースに次ぐ、贔屓する(ファン)チームである。
 試合が終わると、慌てて就寝した。やはり、タイガースの勝利は安眠(熟睡)を恵んだ。パソコントラブルに見舞われて、この先を書く気分を殺がれている。ゆえに、ここで余儀なく結文を決意する。タイガースは雨の中で勝利した。けれど、それに酔えない気分の夜明けである。

春は過ぎる

 4月24日(水曜日)。小雨そぼ降る晩春の夜明けが訪れている。このところ、朝日はかくれんぼしている。せっかくの好季節にあって、腑に落ちないところである。しかし、地震が起きなければ、泣き言はご法度である。なぜなら、自然界の恵みは、やはり箆棒である。桜は北上を続けて、北の地方では、今なお花見どきにある。当地(鎌倉)で葉桜を深める桜木とて、仰げば花見気分横溢の興趣にありつける。まさしく桜は、咲いて良し、散りて好し、葉桜もまた佳しの風景である。
 あれほど待ち望んでいた春3月と4月、季節を分ければ、初春、中春、そして晩春となり、総じて残りは一週になり、こののち季節を変える。季節のめぐりに応じて、人の世における別れの月、出会いの月も過ぎてゆく。人情のはぐくむ別れと出会いは、文字どおり悲喜交々である。ところが私の場合は、喜び少なく、悲しさ多く過ぎてゆく。気張って「哀歓」と書きたいけれど、それは書けず「哀感」一辺倒である。
 起き立てにあって、こんな無駄文を書いてはお里が知れる。もちろん、恥晒しは厭わない。だけどネタなく、文章はここでおしまいである。気が触(ふ)れている自覚はない。

睡魔に恵まれず、悪魔に襲われている

 4月23日(火曜日)。いまだ夜明け前にある。眠気はあるもののほぼ一晩中、悶々として寝つけず、しかたなく起き出している。朦朧頭であっても起きれば、パソコンを起ち上げるしかない。今や、かなしくつらい、わが性(さが)である。
 悶える目覚めには、様々なことが心中に堂々巡りする。これがまた、寝入りを阻害する。こんなことを浮かべていた。文章を書くことには苦痛がともない、愉しみはない。半面、文章を書くことには、こんなご利益、利得、効果がある。一つは、心中に絶えず語句や言葉をめぐらしていることで、おのずから認知症の予防になる。一つは、文章を通して人様との出会いがある。一つは、薄らぐ記憶が確かな記録へ替わる。そして、このことは、大沢さまのご厚意にさずかるものだけれど、書けば製本(単行本)にありつける。双方を天秤にかければやはり、後者が重たいのであろう。
 現在、目玉は冴えている。けれど、脳髄は鈍重である。それゆえに文章はここで打ち切り、試しに寝床へのとんぼ返りを試みる。幸いなるかな! こんなダメ文では、苦痛はともなわない。薄く明け行く夜明けの空は、雨模様である。ウグイスは私とは違がって、まだ塒(ねぐら)に鼾(いびき)も立てず、スヤスヤ眠っている。

「文明の利器」(情報媒体)

 4月22日(月曜日)。小雨降る夜が明けている。起きてネタなく、何を書こうかと、呻吟している。挙句、焼けのやんぱち気分である。そのせいであろうか、心の片隅にこんなことが浮かんでいる。主にそれらは、映画、ラジオ、テレビ、電話(固定・携帯)、パソコン、スマホ、加えて新聞、書籍、写真などである。言うなればこれらは、わが生涯においてさずかっている「文明の利器」(情報媒体)である。これらは折節において、「口・耳・目などの学問」を恵んできた。そして、広く社会学、わが日常において、多大な潤いをもたらしてくれた。いや過去形ではなく、今なお現在形でさずかっている。
 子どもの頃に限定すれば、新聞とラジオは日常生活の大きな愉しみだった。やがて、映画(写真)、電話(固定)、そしてテレビが追っかけた。この間、教科書をはじめ雑誌類(わが愛読書・少年クラブなど)では、いろんな情報をさずかった。そしてこれらは、これまでのわが生存期間(83年)において消滅することなく、いまだに社会貢献を果たしている。このことでは、悦ぶべきことであろう。
 子どもの頃に三本立て映画を見に出かけたときの愉しみと、テレビを初めて観たときの興奮は、今なおありありとよみがえる。わが家に固定電話が引かれたときのうれしさもまた、強くよみがえる。総じて文明の利器(情報媒体)にさずかった初っ端の興奮度は、どれもこれもが忘れがたくよみがえる。
 冒頭に並べた文明の利器(情報媒体)を眺めていると、まさしくそれらの進化とそれにともなう社会の変容が読み取れる。そして、これらの総括編を成す機能は、現下の「スマホ」に織り込まれている。文明の利器(情報媒体)は、この先もスマホを超えて進化を続けること請け合いである。しかしながらわが存命は短く、それにあずかることはできない。いや、もうそんな欲得はない。なぜなら、日々、スマホの扱いに翻弄されているからである。加えて、情報端末機(いろんなカード類を含めて)の進化は、日々わが足りない知能を脅かし続けている。文明の利器(情報媒体)に脅かされなければ案外、わが生涯は「楽ちん」だったのかもしれない。パソコントラブルには、寸時、怯えている。
 雨が強まる夜明けとはいえ、自然界の恵みにはとことん心安らぐところがある。

マイナス思考、かつマイナス文章

 4月21日(日曜日)。朝日は雲隠れしているけれど、それでもすでに明るい夜明けが訪れている。地震に因る身体の揺れもなく、穏やかな夜明けである。それなのに私は、心中にこんなことを浮かべて起き出している。わがマイナス思考の文章は、確かに人様のやる気(士気)を殺いでいる。このことでは、謹んで詫びなければならない。いや、もう書いてはいけないのであろう。ところが、わがマイナス思考、そしてそれにつきまとうマイナス文章は、わが継続文の根幹を成している。このことを恥じれば、おのずから文章は沙汰止みとなる。終末人生を生きる私には、実際のところ明るいネタとそれをこしらえる能力(脳力)はない。日々、ようよう綴る文章は、生きている証しを担っているにすぎない。だから、マイナス思考の塊ではあっても、これにともなう文章が途絶えた時は、「わが絶命時」である。
 生来、わが性癖にはいろんな悪癖がある。もとより、精神のマイナス思考、そして文章を書けば大袈裟な表現、この二つもそれらの範疇に入る。なぜ私は、わが能力の埒外にある文章を書き続けているのであろうか。能無しの私は、こんな苦衷、止めれば済むことである。なさけなくも、この自問を常に繰り返している。このことをほぼ十分間書いて、きょうは書き止めである。なぜなら、マイナス思考の文章が人様に迷惑かけていることを案じて、心身をひととき謹慎すべきと心得ているためである。
 繰り返すけれどこのところ、ウグイスの鳴き声が途絶えている。マイナス思考かつそれによるマイナス文章は、ウグイスにまで迷惑をかけて、ソッポを向かれているのであろうか。終末人生はどう生きて、どんな文章を書けばいいのであろうか。雲が切れて、朝日が輝き始めている夜明けにあって、私は嘆いて、思案にくれている。

追い詰められて「とんずら」

 4月20日(土曜日)、もちろん、いい加減な気持ちではなく、必死に書いている。しかし、このところは、文章とは言えないものばかりである。ゆえに気分は、袋小路に入っている状態にある。挙句、そこから逃げ出すことにもがいている。これにちなんで心中には、二つの成句が浮かんでいる。困ったときの助太刀すがりで、電子辞書を開いた。
 【窮鼠猫を噛む】「絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱者といえども強者を打ち破ることがあるというたとえ」。
 【袋の鼠、あるいは袋の中の鼠】「追い詰められて逃げ場のないことのたとえ」。
 あえて、電子辞書にすがるまでもない簡易な成句である。ところがどちらも、わが現在の心象には当を得なくて、しかたなく「袋小路に入っている」という成句を用いた。ああああ……、きょうも書くまでもない文章を書いている。こんな状態のときには【三十六計逃げるに如かず】という成句(諺)がある。これまた簡易な日常語である。だけど、再び電子辞書を開いた。「形勢が不利になったときには、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法であるということ。また、厄介なことが起きたときには、逃げるのが得策であるということ」。
 厄介ではないけれど、まともな文章が書けず、私は「とんずら」を決め込んだ。
 【とんずら】「とん」は遁走(とんそう)、「ずら」は「ずらかる」の意。犯罪をおかして逃げることをいう俗語。
 もちろん、碌な文章しか書けないことは犯罪ではない。しかしながらわが心象は、それに似た状態にある。のどかに、夜明けが訪れている。ところが今朝もまた、ウグイスは朝寝坊を決め込んでいる。声援(音)無しの電子辞書しかすがれるもののない、わが身は哀れである。ウグイスは、私に愛想尽かしをしているのであろうか。たぶん、そうかもしれない。朝日は輝きを増し始めている。

ウグイスは朝寝坊

 4月19日(金曜日)、すっかり夜が明けている。風雨まったくないのどかな朝が訪れている。きのうの寝起きは地震情報に驚いて、心が揺れた。だから私は、いつもこんな夜明けを願っている。さて、寝起きのきょうは、このことに驚いている。ウグイスもときには、朝寝坊をしでかすのであろうか。気分でも悪いのであろうか。鳴きたくない朝もあるのであろうか。晴れの夜明けにあって、ウグイスの鳴き声が途絶えている。私が「早起き鳥」になり替わり、生前の母の真似をして、ウグイスにたいし「もう、起きらんかい。さぞかし、まだ眠かろうばってん、起きらんと遅れるぞ!」と、言ってもいい。ただ、ウグイスの場合、何に遅れるかはわからない。だからただ、私自身がウグイスの鳴き声(エール)を欲しがっているのである。これぞ、朝寝坊のウグイスには大迷惑であろう。確かに私とて、朝寝坊を無理矢理起こされたら気分が悪い。それでもいくらか、鳴き声の途絶えているウグイスの体調を気遣うところである。
 久しぶりにわが寝起きの気分は良い。それは、昨夜のジャイアンツ戦において、タイガースが「サヨナラ勝ち」をしたからである。昨季日本一になった今季のタイガースは、これまで出足に躓いている。このこともあってきのうの勝利は、わが留飲を下げたのである。このことでは、すこぶる気分の良い寝起きなのに、ところが文章はそれに付随せず、こんな体たらくである。ウグイスはこんな私に、業を煮やし不貞腐れて、エールを止めているのかもしれない。私はエールを欲しがり、両耳には補聴器を確り嵌めている。書き始めから時間が経っているのに、ウグイスはまだ鳴いてくれない。だからと言って子どもの頃のように、ウグイスを「バカ!」呼ばわりはしたくない。なぜなら、夜明けにあってウグイスの鳴き声は、わが一日の始動にさずかるこのうえない応援歌である。
 こんな文章、やはり休めばよかった。わが身体には、とうに焼きが回っている。自然界は、地震情報のない、のどかな朝ぼらけを恵んでいる。

寝起きに見た「地震情報」

 4月18日(木曜日)。起きてパソコンを起ち上げて、いつもの習いにしたがい、メデイアの報じるニュース一覧項目を見た。すると、日本列島に大きな地震が起きていた。「2024年4月17日23時24分ごろ。震源地は豊後水道で、最大震度は6度弱、被災地は高知県、愛媛県と伝えられている。この地震による津波の心配はありません」。これだけの情報で、テレビによる地震状況、そして被害状況はまだ見ていない。最大震度6弱となれば、被災地の被害状況が案じられるところである。
 地震列島と異称される日本の国は、日々、いや時を空けず、どこかが揺れている。小さい揺れにはそんなに驚かないけれど、震度5弱以上であればやはり、日本列島に住むかぎり、他人事でなく驚かされる。それが、震度6弱あるいはそれを超えれば肝を潰される。確かに、震度6弱ともなれば、おのずから震源地近くの被災地は、何らかの被害は免れない状況にある。
 「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日)以降、地震発生には必ず、津波発生の有無が地震情報に添えられるようになっている。今年(令和6年・2014年1月一日)に起きた「能登半島地震」においてもまた、東日本大震災における津波の恐ろしさを再び見せつけられたのである。それゆえに、「津波の心配はありません」という一報は、大きな安堵をもたらしてはいる。
 出端を挫かれてきょうの文章はここで結文にして、階下の茶の間へ向かい、テレビによる地震状況と、被災地状況を見入ることにする。もちろん、野次馬根性ではなく、被災地の安寧を願って見入ることとなる。まさしく日本列島は、地震をはじめ台風その他の天災列島である。なかでも地震は、しょっちゅうどこかで起きていて、限られた「春の異変」と言えないことは、つらくそして悲しいわが心模様をなしている。

寝起きの心境

 4月17日(水曜日)。自然界は晩春ののどかな夜明けを恵んでいる。命の鼓動は休んでは困るけれど、こんな文章は休んだほうがいいのかもしれない。わが文章は惰性に支えられて、ヨロヨロと継続が叶えられている。だから、惰性が途切ればたちまち、頓挫の憂き目を見ることとなる。この恐れは、常にわが身に付き纏っている。ゆえに、おとといときのうの二日にわたりそれを恐れて私は、まるで身体が心不全の病に見舞われたような文章を書いた。すなわち私は、恥を晒してまでも惰性が途切れるのを恐れて、正気で悪あがきの文章を書いたのである。まさしく、狂気の沙汰であった。
 ところが、なお懲りずに三日目、きょうの文章もその延長線上にある。「ひぐらしの記」は、空虚になるはずのわが老後生活(日常)を支えている。そして、これにちなむ人様との出会いは、わが日常に限りない潤いをもたらしている。もとより、これらのことにおいては、いくら感謝してもしすぎることはない。わが身に余る僥倖、重ねて棚ぼたの宝物である。
 それなのにこのところの私は、書く気力の喪失に見舞われて、挙句に文章は、恐れている頓挫寸前にある。もちろん、わが独自事情であり、人様に助けをすがることはできず、みずからを鼓舞するより得手はない。きょうはこのことを書いて、惰性を繋げて、頓挫を免れる便法にするだけである。はなはだ、かたじけなく思う、寝起きのわが心境である。こんな私にウグイスは、軽やかな鳴き声で、エールを送っている。ぐうたらなわが心象が揺さぶられる、晩春の素敵な夜明けである。三日続けての無題は虚しいゆえに、打ち止めにしたいけれど、しかし決断は鈍っている。