「文は人を表す」。この成句はわが文章にたいする、証しと戒めである。実際のところは生真面目が勝ちすぎる、いやわが頑固な性格を映して、ユーモアの欠片もない硬い文章である。おのずから自分自身にも、ちっとも面白味がない。このことは飽きるほどわが身に沁みて、絶えず自認を強いられている。そのうえ、他人評価というより、最も身近にいる妻の評価もまた、このことに尽きる。いやそれは、最も手厳しく、なおそれがすぎるところにある。
「パパ。わたし、読まないわよ。パパの文章は硬くて、読みたくないのよ。なんで、もっと易しく書けないの、易しく書きなさいよ!」
「そうだね。おれも、それはわかっているよ。だけど、書かないよ! おまえは、読まなくていいよ」
実際にも妻は、わが文章は一切読まない。いや、読んでほしくない。読めば、わが文章は喧嘩の誘因となる。
確かに、「文は人なり」である。この成句があるかぎりわが文章は、ユーモアや面白味の埒外にある。なぜなら、意識して硬い文章に成り下がるところがある。もちろん、弁解じみていることだけれど、あえて吐露するところである。なぜなら、文章の中にあって私は、漢字の多用と無用とも思える成句を連ねている。するとこれは、もとよりわが生涯教育の祟りと言えそうである。すなわちそれは、語彙(文字と言葉)の忘却防止のせいでもあり、ひいては文章の不出来の因に成り下がっている。
「文章は、平易な言葉でわかり易く書きなさい」。わが耳に、胼胝ができている、文章のイロハである。一方、これこそ、文章にたずさわる者への、愛の戒めを成す金言である。ところがずばり、私はこれに反している。もとより、意識して逆らっているわけではない。いや、わかっていてもそんな文章が書けない、わが無能力の証しである。切なくも私は、人様の目から見れば、「0点」の文章を覚悟して書いている。ようやく耐え得る覚悟は、みずからに課している、生涯学習という砦である。もちろん、自慢や心の慰安にはならない。しかし、いくらかの自己満足にはありつける。
こんなみっともない、かつみすぼらしい文章を書いてしまい、投稿ボタンを押すべきかどうか、迷っている。いやわが文章は、常にさ迷っている。わが味方は、夜明けの「春あけぼの」だけではないはずである。たぶん、継続の力が、いくらか味方になってくれている。無理やり、苦笑せざるを得ない。確かに、書かなければ気分は安逸である。