「東京大空襲」と「東日本大震災」の映像がテレビニュースに相次いだ。歳月を経てもまったく風化や忘却のしようのない、人間界の愚かさと自然界の脅威がもたらした、リアルタイムに観ているような、限りない惨禍の映像だった。
時日を限った二つの映像とは違って現下のテレビニュースは、三年近くにわたる新型コロナウイルスの感染状況と、突如のロシアの「ウクライナ侵攻」にまつわる映像に明け暮れている。昨年の夏、七月二十四日からは「夏季・東京オリンピック」、そして八月には「夏季・東京パラリンピック」が後追いした。こののち今年に入り、「冬季・北京オリンピック」(二月四日)が幕を開け、それを終えて現在は、「冬季・北京パラリンピック」の閉幕間近にある。
昨年の夏からこの春先まで、日本の国のみならず世界は、大きな悲喜交々の事情の中で推移してきた。いや、実際のところ最も楽しかるべき四つのオリンピックは、二つの変事により余儀なく埋没の憂き目に遭遇した感さえある。いくらか他人事にさえ思えるこんなことは、どうでもいいのかもしれない。
わが身に照らせばこの間の私は、ふるさとの長兄、そして次兄の妻(東京都国分寺市内に住む・義姉)を亡くした。加えて、昨年末から今年の一月下旬にかけては、妻の入院にも見舞われた。これらのせいで気分がまったく乗らず、閉塞感まみれにあった私は、おのずから文章を書く気力を長く失くしていた。もちろん、今なおわが心身は閉塞感まみれである。閉塞感まみれで書く文章は、おのずからまったく味気ない。だから、このところの私は、のどかな朝ぼらけにすがっている。それは文章の出来を望むためものではなく、漂う閉塞感を蹴散らし、陰鬱気分の癒しにありつきたいためである。
「東日本大震災」十一周年明けのきょう(三月十二日・土曜日)は、振出しに戻り自然賛歌を謳っている。確かに、春はあけぼの! 確かに私は、この恩に着っている。