恐ろしさ、「地震、地震、地震、地震」

 「巨人、大鵬、卵焼き」。こちらは、必ずしも不変ではない。「地震、雷、火事、親父」。どちらかと言えばこちらは、不変である。どちらかという条件を付したのは、親父のところが人さまざまに、置き換わるからである。
 確かにこのところは、個人感情とは別にも、時々の世相をも反映する。私の場合、親父は恐ろしさの埒外に居た。いや、優しさの筆頭に位置していた。母も、多くの兄や姉たちも、父の位置に並んでいた。これらのことからすれば、「地震、雷、火事、親父」という文句は、幸いなるかな! 実感のない、子どもの頃の語呂合わせの遊び言葉みたいなものだった。
 現代の世相に鑑みて、親父のところを置き換えれば、私の場合はさしずめこれに尽きる。それは日々悩み脅かされ続けている、体のいいIT(情報技術)やAI(人工頭脳)などがからむ、「電子社会」の生きにくさと言えそうである。
 ところが、永遠に続く時代変遷の中にあって、常に変わらず恐ろしさの筆頭に位置するのは、やはり「地震」である。地震さえなければこの世は、お釈迦様に導かれてあの世に行くまでもない桃源郷、すなわち安楽を貪ることができる「極楽浄土」である。
 結局、人の世の住みにくさの根源(本源)を成すのは、わが体験上から推して、ズバリ地震と言えそうである。土地がグラグラ揺れると、わが身体はブルブル震えている。震動と振動、恐ろしさのうえでは同音異義の最たるものである。
 余震がありそうな、雨模様の夜明けが訪れている。恐ろしさは、語呂合わせでなく、「地震」一辺倒で、十分である。