三月十六日(水曜日)、起き出してきて、パソコンを起ち上げ、しばし机上に頬杖をついている。前面の雨戸開けっ放しの窓ガラスを通して、ほのかに夜明けが訪れている。このところの私は、冬防寒重装備を完全に脱ぎ捨てている。夜具のなかの一つである寝布団は、早や手まわしにすでに、薄手の夏蒲団へ切り替えている。それでも、もはや寒気はまったく感じない。寒気を極端に嫌う私は、まさしく春の訪れに感謝感激である。
書き殴りにかまけて、浮かんでいる世情の変化の一つを記せば、これがある。新型コロナウイルスにかかわるテレビニュースは、すっかり「ロシアのウクライナへの侵攻」ニュースの後塵へと、成り下がっている。確かに、このところのコロナの感染状況は、低下傾向にあると、伝えられている。しかし、ニュースを減らすほどでもない、まだ高止まり状態にある。「NNNのまとめでは15日、全国で4万9171人の感染が確認されました。亡くなった方は全国で188人報告されています。」なんだか国民の気が緩み、第七波へのぶり返しに、私は懸念と老婆心をいだかざるを得ないところがある。
さて、もっと身近なこと、いや最も身近なわが身体の直近事情を書けばこうである。もとより内臓器官の病の有無は、自覚症状がないかぎり、自分自身では知るよしない。このため五官、すなわち眼(視覚)、鼻(嗅覚)、耳(聴覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)に限る、病(支障状況)の自己診断を試みている。これらの中で、舌(味覚)はわが都合で勝手に、歯(味覚)に置き換えた。診療科では歯科(歯医者)である。現在、予約を繰り返し外来患者になり果てているのには、眼科医院と歯科医院がある。鼻は生来の団子鼻くらいで病とは言えず、確かに嗅覚は万全である。皮膚(触覚)は病すれすれ(予備軍)に、いたるところの痒みに悩まされている。しかしながら、市販の痒み止めを塗りつけるくらいで、幸運にも金のかかる通院は免れている。いよいよ、憎たらしい耳(聴覚)の出番である。すなわち現在、私を精神的にも、散財的にも虐め尽くしているのは、難聴を根源とする耳(聴覚)の不具合である。ところが、これまた幸運にも通院は免れている。そのぶん、テレビ通販やアマゾン市場の集音機探しに、手間暇と金をかけてすがっている。高額の補聴器までは買いの手が伸びない、わが甲斐性無しは恨めしいかぎりである。「難聴は、人生を委縮させる」。わが体験上の切ない悟りである。
起き立にあって、なんだか詰まらない文章を書いてしまった。書き殴りの祟りである。恥じ入るとともに、詫びるところである。集音機は、寝るときは外している。このため、文を閉じて、集音機を両耳にかけて、階下へ急ぐこととする。リハビリ中の妻との会話は、互いの愛情に背いて、大声の喧嘩腰となる。わがまま勝手な耳(聴覚)である。いや、かぎりなく愛しい耳である。そのぶん、ままならないところが憎たらしさを増幅している。春はあけぼの、のどかな夜明けが訪れている。