ブックサロン GENBUN

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奇跡に生きる

三條源八著

 著者は八十五歳。米穀商を営んでいる。昭和16年2月食管法が公布され、著者の住む山形県山形市でも市内に三百軒もあった小売店が解体され、配給組合が設立された。著者は市内9ヵ所に設立された第九配給所勤務となり、その後同県の食糧営団が設立されて職員として勤務することになる。ところが昭和十八年十月の召集令状で満州へ渡り、行軍中に脚気になり陸軍病院に入院させられた。
 この書は、太平洋戦争によって満州に出征した著者が、異国において終戦を迎え、その後祖国の地を踏むまでの体験を綴ったものである。戦争の悲惨な状況をそのまま書き記すのではなく、悲惨な状況下であっても決してくじけることなく、「生き抜く」道を積極的に探し、自らで開拓し、時には異国の地で内地引き揚げを待ち暮らす人々を励まし続けた年月を淡々と語ったものである。
 著者は入院先の病院で隊長より、「戦争に敗けた。無条件降伏である。手も足も出ない。今更どうすることも出来ない。今は只じっと我慢することであり、この先どうなるか分からないが、二年でも三年でも内地に帰る迄忍耐強く辛抱して待つことが一番大事なことである」との訓示を受けたが、「只待つのは愚の愚である。何とかしなければ」と奮起をする。
「私はふと思いました。このような成り行きまかせの状況で日を過ごせば、我々の躰はどうなるだろうか。食糧は欠乏する、薬は無くなるで栄養失調で痩せ衰えて死亡するか、或いは重病になってあの世行きとなるか、何れにしても生きることは難しい……(本文による)」こんな状況の中で著者は、入院先の病院で軍医に院外活動を提案し、陸軍病院在籍の身分証明書と外泊証明書を手に満州の地で行商をし、その収入を病院に納入し続けた。
 その行商は、ユニークであり、また奇跡としか言いようの無い出来事の連続であった。しかし、これらの体験を通して言えることは、どんなときでも著者の生きる姿勢が前向きであり、明るい未来を信じそれに向かって生きていることである。これは、著者の人間としての真摯な生き方によるものであろう。

風を聴く

多田美津子著

 家の近くの石神井公園にこぶしの花が咲きはじめる頃になると、著者は故郷の金毘羅さまの玉蘭を思い出す。玉蘭は白木蓮の漢名である。女学校卒業後、近所の学友と共に当時金毘羅さまの神職の奥さんに裁縫、茶道、華道を習いに通った日々が甦って来る。折々の何気ない事柄に思いは故郷香川で過ごした頃のことが、胸をよぎる。野良仕事で忙しい父母にかわって幼い著者は安政四年生まれの祖父の語ってくれる昔話や体験談を聞いて大きくなる。
 練馬区の婦人学級の文化講座に参加して、そこから発展した自主グループ生活記録を書く「野道」に所属、その後文章教室「夕映え」の会員として活動を続けている。
 故郷をあとにして、三十年近くも経ったある日、故郷香川県の実家に北海道開拓移住者の二世と称する男性が自分たちのルーツを求めて尋ねてきた。そして、著者もそのルーツ探しに関わることとなった「青銅の神馬」をはじめ、戦地ルソンで亡くなった従兄のことを書いた「ルソンに果つ」など、とくに戦争時代のことは痛ましい。
 ──あの時、あの戦争は「おおみいくさ」とも「聖戦」とも呼ばれ、当時の日本の、殊に農村の女たちは、わたしも含めて、戦争反対の声をあげることなど、思いもつかなかった。たとえ、心の底で思ったとしても、それを口にしようものなら非国民とののしられて、周囲から爪はじきを受けることが目に見えていた。─省略─一人の戦死者が出るたびに、それに連なる幾たりの人が歎き悲しんだことか。戦争に消えていったあのひと、このひと、あの戦争のかげにどれ程の涙が流され続けてきたことか……。(ルソンに果つより)

霧の道五十年

藤田 光著

 十四歳で不治の病といわれているナルコレプシーを発病した著者が、孤独と絶望に襲われながら人間らしく生きるための闘いを俳句と文章で綴った自分史である。
 ナルコレプシーとは俗名居眠り病ともいわれる病気で、その治療法は、薬を飲んで夜と昼を調整する以外にないという。著者は中学三年の受験期に寝不足から体調不良になって発病したが、二十八年間病気と確認できないまま過ごし、病気と判明してからも病気を理解しない社会の中で、自らの存在について問いながら、たった一人の闘いを続けてきた。
 郵政職員として勤めた二十五年間を含め、十八回の転職をしながら、一労働者に徹して社会や職場の差別や偏見に厳しい眼を向け、労働組合で闘い、俳人として作品を書き世の中に発表することで問題を投げかけ、警告を発し、自らも生きることへの意欲を触発された。
 親兄弟にも精神的には見放された私は、一病息災で生きて来た。そしてささやかではあるが、作品を書く事によって、孤独から抜け出し、人間としての存在意識を感じ
るようになった事……略……何十億年という気の遠くなるような時を経て、育まれた地球の生命を感じるようになった事である。……略……人間は何のために努力し、どう生きて行くか、それはより「幸福」を求めての事のはずである。物質的に豊かな事は幸福には継らない。……略……人間一人の力など、大海に浮かぶ木の葉のようなものであるかも知れぬ。しかし木の葉も何かしなければならない。食って寝て死を待つ気にはなれないのである。(まえがきより)
 著者は、この「霧の道五十年」のあとがきにも書いているが、十五年前にも自分史を出版している。しかしその時には自分の人生を大きく変えることになったナルコレプシーという不治の病と向き合うことが出来なかったため、出版後も充実感を得ることが出来なかった。
 今回の出版を機に書きたいことが次から次と出てくると著者はいう。著者にとって、新たな出発の本である。

第一章 生いたちと転職
   蜂蜜で生命拾いし霜の朝
   病い負い農高に入る余寒かな
   職退いて湯治に賭ける秋の月
   忍び寄る死の影を斬る冬の夜
   青空や届かぬ道の花こぶし
第二章 郵便配達員時代
   闘いは赤いポストのめぐりより
   年休も出ぬに南の海へ行く
   郵便を作家に渡す花の下
   散る時はやけに儚し寒椿
   ストライキそれが踏絵の十二月
第三章 退職、その後
   学び舎も所詮は職場となる四月
   もやしの子水に漂う夜の校舎
   役人は刃物使わず首を斬る
   還暦の首に冷たし秋の風
   霧の道今だに晴れず五十年

葦の原の夢

大沢久美子著

 この小説の主人公である織田龍吉は、著者の母方の祖父、岩戸浅太郎をモデルにしたものである。彼は、明治十三年に兵庫県豊岡村字岩熊に生まれ、十六歳で大工の棟梁になった。島根県の宍道湖西岸の広大な葦の原を田園地帯にする壮大な夢を抱いて彼が生きた明治・大正・昭和初期は、日本の歴史の中でも激動の時代であった。
 龍吉の母親は、彼が幼い頃に病気で亡くなったため、祖母に育てられた。しかしその祖母も、彼が十二歳の年に世を去った。
 祖母の葬儀の日、龍吉は三歳年上の従兄の亘から東京の学校を出て、将来は政治家になりたいという夢を聞かされ、自分の現在暮らしている環境からは考えもつかない別世界のことと思いながらも、彼の体には訳の解らない昂ぶりが湧き起こる。
 しばらくして村の大工の棟梁の元に預けられた龍吉は、昔は村で評判だった腕利きの大工銀蔵に出会った。銀蔵は、酒好きがたたって落ちぶれてしまっていた。龍吉はその彼に見込まれて、大工の技を仕込まれて、若くして棟梁になる。
 龍吉が島根県の宍道湖西岸の葦の原に辿り着くまでの道程は波乱万丈で、彼の出逢った人々も様々である。
 宍道湖西岸の葦の原を広大な穀倉地帯にする龍吉の夢は、戦争に阻まれ、水害や干ばつ、塩害などの天災に見舞われ、困難を窮めるのであるが、困難に出合うたびに彼の夢はますます大きく膨れあがっていった。
 著者はあとがきに、この小説を書くに至った経緯を書いている。著者は、陶芸家で茨城県の三和町にある人里離れた地に望月窯(もつきがま)を築いている父坂本宗生に師事して、一九九二年に陶芸の道に入った。
 著者の両親の故郷は島根県である。著者が毎週末作陶のために訪れると、食後やお茶の時間に昔話が弾む。当然、父母の両親や友人、知人のことにまで話題が広がっていく。
 著者の心には繰り返し聞かされるそれらのことの中で、祖父岩戸浅太郎の人生が深く刻みこまれていき、やがて何とか小説の形で残しておきたいと思うようになった。
 父母の過ぎ去った遠い記憶を何度も手繰り寄せてもらいながら、著者の祖父の生涯が少しずつ再現されていく。それは、著者の母にとっては特に思い出すことは楽しいことばかりではなく、切なく辛いできごとも数多くあった。
 名もないひとりの人間の生涯は、その本人が死んでしまえば、消え失せてしまう。本書の主人公龍吉の存在も、著者が書き残さなければ風化してしまう。島根県宍道湖西岸の葦の原を開拓しようとした龍吉の夢は、この著書によってこの世に生き続けていくのである。(自費出版ジャーナル第49号)

時を歩く

河合佳兵衛著

日本自分史普及協会のホームページで推薦の本

 本書の著者は平成七年に、三十三年間の公務員生活に区切りをつけ、自ら遊び人と称して、退職後の生活を楽しんでいる。平成八年に随筆集「蔓茘枝」を出版し、本書が二冊目の出版である。
 本書は三章からなっており、第一章は「遠い日」と題して著者の小中学校時代の思い出が書かれている。いずれの作品も著者の幼い日が生き生きとよみがえってくる。誰にでもひとつやふたつは著者と同じような体験があったのではないだろうか。それだけに読む者の心のひだに染み入る遠い日々となっている。
 第二章は、表題になった「時を歩く」である。著者があとがきに書いているが、雑草庵のぐうたら生活は無規律、非生産的な消費型の暮らしで、著者が飽きることなくあきれるほど性に合っているという日常生活の中から生まれた作品である。ゆったりとした時の流れに浸って暮らす著者ならではの人生観が随所に滲み出ていて、読者は著者とともに暮らしているような錯覚に捕われたりする。
 第二章に「ちょいと一服」という作品がある。四月の肌寒いある夜、著者はこたつに入って読書に耽っている。九時から教育テレビでショパンのピアノ協奏曲第一番を演るのでそれを待っている数分間、時計を気にしながらも読みかけの本が気になる。「鬼平犯科帳」である。図書館に勤務していたころに「鬼平犯科帳」は人気があり失せ頭であったとか、テレビドラマ化された鬼平役の俳優へと話題がいき、蕎麦掻きの話が出てくると子どものころに感じた苦味が旨みに変っておいしく感じるようになったとか、時計を見ながらだった読書に何時の間にか夢中になって九時が過ぎてしまっている。読者は、著者とともにこたつに入って時を共有しているような気持ちになるのである。
「蕎麦掻き食べたくなったね」
「鬼平役の中村吉右衛門が一番いいよね」
「図書館に勤めていたころ、この本は人気があってね。二十四巻を三組購入したことがあったのよ」
 そんな会話が弾むことになるのだろうか。
 第三章は「旅随筆」で、旅行好きの著者が旅先で出合った出来事や人々のことが語られている。誰にでも気軽に声をかけ、何事にも興味を持たずにはいられない。そうした好奇心の塊のような著者と、楽しい旅をしているような気分にさせられる作品である。
 親殺し、子殺し、夫妻殺し、右を見ても左を見ても殺伐とした現代に生きていて、どうかすると、何もかも疑ってみないと酷い目に遇いそうで、のん気に構えては居れない。
 本書を読み終えて、ふと私たちが忘れてしまっている、失いかけている人間らしい心に出逢った気持ちになった。
 本書は自費出版フェアでも人気の本である。(自費出版ジャーナル第47号)

丈で快適なわが家が めちゃ安で建つ

松田源治著

 本書はマイホーム建築、材木屋十五年、木造建築の管理・監督十一年のキャリアを持つ著者が、頑丈で快適なマイホームをめちゃ安で手に入れた自分の体験を通して、「めちゃ安マイホームづくり」を提言する。
 建築のことは素人でわからないが、これからマイホームを新築・建替えしようと考えている人たち、既にマイホームを持っている人たちに、日本の住宅事情の現実をわかりやすく解説しながら、「めちゃ安マイホーム」は決して特別なものではなく、誰にでも実現できる身近なものである事を説いている。
 しかし、誰にでも実現できるといってもこの「めち安マイホーム」を手に入れるには、手に入れる側の心構えが必要であることを筆者は力説する。この著書にはそのことが明確に書かれている。
 なぜ日本の住宅事情が、「頑丈で快適なわが家づくり」を駄目にしてしまったか。住宅ローン地獄で家庭崩壊に至る現実がなぜ生れるのか。それは、誰のせいでもない。マイホーム建築の実務を知る努力を怠った施主に原因があると筆者は手厳しく言う。建築のノーハウを知らない施主達が、「知らない」を理由にして、「素人だから仕方がない。建築は業者にお任せ」とばかり、わが家を手に入れる経緯をすべて業者任せにしてしまったツケが情け容赦なく施主にのしかかってしまうからである。
 筆者は、施主の建築無知が施主からゆとりある暮らしを遠ざけてしまっていることにまで踏み込んで、人間らしい暮らしを取り戻すことを考える。
 もうひとつ、この著書の大きな特徴は、マイホーム建築に実際に携わる建築士・現場監督・施工業者・職人への「めちゃ安マイホームづくり」参加の呼びかけである。彼らが建築士・現場監督・施工業者・職人本来のあるべき姿に立ちかえり、いかに遣り甲斐のある仕事をするかという提言をしていることなのだ。
 家作りは、それを建てる側、そこに住む側、そしてその家の建っている地域環境にまで影響が及ぶものである。著者は、それらのひろい視野に立って、人間がいかに生きるべきかという問いを読む側に提示している。
 読者は、この本を読むことで、今まであたりまえに受け入れていた社会の仕組みや法律に疑問が湧き、そうしたことに無知であった自分に気づき、やがて著者と対話して一緒に考えているような気分になっていく。
 「わが家」されど「わが家にあらず」「生かされている自分」に気づく本である。

発売ジーエム企画
(自費出版ジャーナル第34号)

波うちよせる家

遠矢徹彦著

第二十九回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞

 本書は、表題作の他、「ボルバ行方」「ぼくが木の鳥を削り終える日」「光る鍵」「十八号棟」の四編が収録されている。
 著者は、一九七八年に井上光晴の〃文学伝習所〃に参加し、季刊「辺境」に表題作「波うちよせる家」を発表し、「十八号棟」を井上光晴編集の『文学伝習所の人々』(講談社刊)に発表した。その後、活動の場を新日本文学に移し、「ぼくが木の鳥を削り終える日」で新日本文学賞佳作、「ボルバの行方」では新日本文学賞を受賞した。
 跋文で松本昌次氏が語っているように、本書は「高度経済成長という魔性の川波に侵食され、亡命者群のごとく、市民社会の片隅に埋め込まれてしまい、私たちの現実からことごとく消えてしまったかのようにみえる労働者。しかし彼等は、おそらく現在も底辺をさすらっているであろう。そうした労働者の運命のことを真剣に考えつづけることこそ私自身の運命」と受けとめ、「自分の中の超管理社会奴隷の粘りつく血を、たえまなく絞りだしつづけていくこと」という著者の格闘がひしひしと読む者の胸に迫って来る。
 私はいくつもの不安定な仕事を転々として、やっと老人ホームのボイラーマンという地味な仕事につくことが出来た。私の従兄泉名武郎はかつて医療労働領域のすぐれた活動家だったが、都会の生活に見切りをつけて妻子と共に帰郷した。その彼から一度遊びに来ないかという一通の手紙が届き出かける決心をする。勤務を終えた私は、三日間の有給休暇願いを施設の管理課窓口へ提出しにいかねばならない。仕事で汚れた手足を洗うのに手まどり苛立ち、自転車のハンドルの持ち手が、洗い残した真っ黒いグリスでにちゃついて不快になる。人間の労働の結果として生ずるものにたいして自分がうとましく感ずる反射神経を必要以上に敏感に働かせてしまう。いぜんはそれほどでもなかったのに、この頃はだんだんそれが濃厚になっていく。私は急に自分の中で何かがこわれはじめていくような不安な気分にとらわれだした。
 そんな思いの中で私が五年ぶりに出会った彼は、いくらか肥り気味で皮膚も濁り、表情の変化にさいして反応する顔の表層筋の動きも鋭さを失い、曖昧にぼやけていた。

(波うちよせる家より)
(自費出版ジャーナル第28号)

蜂  起

村 伊作著

 本書は「城下騒動」とも呼ばれる、江戸末期に起った北遠州の百姓一揆の様子を関係文献と現地踏査を元に小説にしたものである。
 万延期は風水害の多かった時期で、とくに万延元年五月には天竜川下流の大出水で付近一帯の田畑は大凶作になり、米価の暴騰をまねいた。
 北遠の山間地方は田畑の少ない貧農地帯で、打ちつづく天災と高米価に耐え難い困窮のどん底に陥った農民の憤激は、米の買い占めや売り惜しみで暴利をむさぼろうとする在郷商人に向けられた。
 遠州北部の深い山中にある四十六ヵ村も深刻な食糧不足に見舞われた。河内村の三役が相談した結果、百姓代仁右衛門が、食糧不足を何とかするため近隣の村々をあたってみることになった。小前百姓五郎三郎は、彼の供をして集落を訪ね回っている時に気田村で小前百姓佐五平に声をかけられた。佐五平は二人に向かって、下々の百姓が困っているのに、おおかたの村で三役らはそ知らぬ顔をしている。このままじゃ早晩みんなの暮しが立ちゆかなくなるとまくしたてた。仁右衛門は相手にしなかったが五郎三郎は彼の言葉を振り切ることにためらいがあった。
 その後佐五平は、五郎三郎の家を訪れて自分の家の納屋で寄合を開き、村の窮状を救うために立ち上がる相談をするので参加して欲しいと頼む。五郎三郎は、自分に目をかけてくれる百姓代の仁右衛門に迷惑がかかることは出来ないと躊躇するが、佐五平の熱意に心が動く。
 やがて五郎三郎は佐五平と心をひとつにして四十六ヵ村の農民の代表をまとめて立ちあがる。はるばる山を越え、南部の城下村の問屋へ食糧救援を頼みにいくのである。
 ──河内村が舟木集落前の川原に着くと、すでに二十村程がきていた。ぐるりの山山のひだはまだ暗いが、上空は白く、霧も出ていないので流れも広い川原も見通せる。少なくて二十人、多いところは五十人位の群れがあちこちに散っている。
 五郎三郎は、長吉に仲間を託し、散るなかへ入っていった。一様に蓑をつけ、菅笠をかぶり、草鞋をはいた男達が玉砂利に尻をおろして、談笑し、額を寄せ合っている。近づいては顔を確かめた。かなりの年配者もいる。(本文より)
 天竜川上流の気田川に沿って秋葉山道を南下してきた農民一揆の集団は、途中の村村で多くの参加者を加え、雪達磨式にその勢を増していく。
 本書は三五二頁の長篇で、登場人物の数も多いが、それぞれの人物の性格や特徴がよく表現されて、作品の魅力になっている。五郎三郎、仁右衛門の誠実な人柄は好感がもてるが、茶椎茸問屋の主人遠州屋重太夫や郡奉行、代官などの登場によって、作品はより一層奥深いものになっている。

(自費出版ジャーナル第42号)

ユーデットの夏

倉坪智博著

「春にぞあらまし」が第28回神奈川新聞文芸コンクールで佳作

 本書は高校の美術教師と大手不動産に勤務する二人の女性の恋愛を軸として展開する表題作『ユーデットの夏』、山の伝説に憑かれた中年男の恋物語を描いた『ルツェルンにて』、老学者が醍醐寺の夜桜に化かされる話を描いた『春にぞあらまし』(第二十八回神奈川新聞文芸コンクール佳作)を収録。
 永年教職に就いてきた著者の周囲には、詩歌や小説、映像の世界で活躍する人たちがいて、本書に跋文を寄せている香納諒一氏は、著者の高校の教え子で、「梟の拳」「炎の影」「幻の女」など多数の作品を世に発表している今文壇で活躍中の推理作家である。また扉絵は、著者の友人である佐光千尋氏の作品で、彼は日本テレビ放映の『火曜サスペンス劇場』のプロデューサーとして活躍中であり、シリーズものである「だます女、だまされる女」「警視庁鑑識班」「霞夕子」のほか単発の企画も数多く手がけている。著者が主宰する『若紫の会』は、十七年の歳月を経て今なお「源氏物語」や「伊勢物語」など古文を読み継いでいる。
 これらの環境の中で著者は、人間男女の不可思議な愛憎ドラマに挑み、意のままにならぬ鵜を操るに似て、と表現の難しさに苦闘し、新しい作品への挑戦を続けている。
 八一年に初渡欧し、プラハの夜の町を歩いた著者は、当時共産圏の時代だったこの国の街角に暗い顔をしてたむろしていた学生達の青春の怒りや悲しみを見た。それは、ちょうど日本の六九年の高校紛争時に教師として向き合った著者の青春群像と重なるものがあった。
 初渡欧から八年後、ベルリンの壁が決壊し、ソ連邦が解体し、ヨーロッパに大きな地殻変動が起こった。著者はそんな時代に一旅行者として再びかの地を歩いた。著者の心中には徐々にあるストーリーが熱い思いとともに出来上がっていった。
 「ユーデットの夏」は、まさにこの熱い思いが醸成された作品である。日本の経済の繁栄を誇示するかのように建ち並ぶ高層建築街の一角を占める大手不動産に勤務する羽鳥冴子は、女性総合職第一号として調査部の副室長に抜擢される。人も羨む最高のオフィス・レディとして充実した人生を生きているはずの彼女を襲った不条理な愛の出逢いとは。自らの結婚に終止符を打つためにヨーロッパを旅する高校教師仁村美沙が選んだ愛の形とは。美しい音楽と映像の世界にさ迷い込んだような作品群である。

(自費出版ジャーナル第27号に加筆)

私と妻と子供たちと……

須永 勝著

 本書は自叙伝である。著者も後記で書いているが、誰にも、どこの家にもある数知れないドラマと歴史、そして自分では決して結末を書くことの出来ない作品である。
 昨年(一九九九年)、三十一年間勤務した小松製作所を退職した著者は、十年程前から書き残してきた著者と妻と子供たちの来し方とそれに関わり支えてくれたたくさんの人々との思い出を、六十才を迎え、還暦・定年の記念のひと区切りとして出版した。
 著者の父は、シベリア捕虜収容所から生還し、栃木県小山町に小さな茅葺き屋根の家を借りて理容室を開設した。当時は土間に板を張り鏡を取り付けた三・七五坪の店に手製の椅子を置いただけの店であったが、朝から晩まで超の字が付くほどの繁盛ぶりであった。
 その父との確執から始まって青春時代、夢と希望を膨らませた結婚生活の現実へと、次第に読者は著者の歩んできた世界へどっぷり浸かっていく。まるで、著者の過去を読者が経験したような錯覚に陥るほど、その内容は親しみ易くそれでいて誰にでもあるというようなありきたりのものではない。
 結婚後、妻千恵子を見舞う左股関節不全という不幸、しかし夫婦はこれを見事に克服していく。いつも前向きな生き方には本当に拍手を送りたくなる。
 この作品に出てくる人々の何と生き生きして清々しいことか。これは、著者の誠実な人生観にあると思う。どんなことにも精一杯立ち向かう生き方にある。
 この著書は、人生をいかに生きるかという問いに勇気と希望をもって答えてくれる一冊である。
   横になり絵本を読めとせがむ子の癖も又よし今日は退院(健一入院より)
   二杯目を酌いで貰えず飲み干せず酒にも義父の思い出があり(大光寺より)

(自費出版ジャーナル第29号)