黒田昌紀の総合知識論

黒田昌紀の総合知識論

下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。

民主党政権が作るべきだった国家戦略室の 自治体出身者による新官僚組織

二〇〇九年の夏、長い間の自民党政権下に於ける政治家の金と汚職、それと閣僚による失言問題で禍いが重り、衆議院議員選挙に於て歴史上最大の大敗を喫し、政権を民主党に明け渡す結果になった。政権を取った民主党がやろうとした政策が、選挙の時に公約したマニフェストにある。子供手当の給付、高速道路の無償化などの目玉となるものの他、それまでの自民党政権下での官僚主導の政治、行政を終わりにし、政治家である大臣が考えた政策を直接行う政治主導の政治を歌い、内閣府の下に国家戦略室を設け、対応したのだが、結局、三年間の政権下で、前述のマニフェストで挙げた政策と共に、政治主導の政治についても、十分な実績を上げられず、政権を降りることになった。
 政治主導の政治が思うように実行できず浸透できなかったのは、内閣や政治家が立案した政策の細かい具体的なものを、それまで自民党政権下でやられていた政治行政の事務当局である各省庁の官僚を使って、行政事務として実行させることを忌み嫌ったことである。各省庁の官僚を使おうとせず、大臣、政治家自ら政策をやろうとしたことであった。
 政治主導の政治をやるということは、文字通り政治家である政府、内閣が意志決定をし、立案した政策を忠実に行うことだ。その場合、政治家である大臣が、強い指導力を発揮し、大臣命令を強く出し、各省庁の官僚、役人が忠実に実行することだ。さらに、官僚の意向で、政府の立案した政策を修正せずに実行することである。しかし、それは望めなかった。
 長い間の自民党政権下で、政府や大臣が自分達が立てた政策を官僚にほぼ丸投げのような形でやらせていたため、大臣の指導した政策について、大臣の言うことを聞かず、官僚のやりやすいように、あるいは、官僚の都合のよいように政策を修正し、大臣の意向を無視して、逆に大臣に指南するような習慣が確立していた。つまり、政府や大臣が立案した政策を実際に行政事務として行うのは、各省庁の役人であり、官僚なのだから、自分達のやりやすいように大臣の政策を彼らの都合で修正して来たのが、官僚主導の政治と呼ばれるものだった。
 この自民党政権下で長い間やられて来た官僚主導の政治について民主党は、選挙で自民党の歴史的敗北によって政権を取ると、自民党の風習を打破し、それまでの官僚主導を極端に嫌い、各省庁の役人による政策実行の意向で政策をさせることを止め、政治家が直に行う「政治主導の政治」を行なおうとした。政権を取った民主党にとって、国民の期待を背負っているので、何か新しい事をやらざるを得なかったからである。しかし、政府や大臣等、政治家が作った政策を実行するためには、どうしても細い所は事務当局である各省庁の役人、つまり、官僚が政策を見直し、文書にし、政策の立案を補正修正し、その過程で各省庁の官僚が、政府、大臣、つまり、政治家の政策を行政事務として実務的にやりやすいように内容を作り代えて来たのだ。これが官僚主導の政治の大元である。
 さらに、新しい政策をするためには、新たな法案を作らなければならない。その場合、三権分立の組織から言えば、立法府である国会が立法議員つまり政治主導でやり、ある法案を作ろうとすると、各専門の委員会が政府が何を政策として求めているかを知り、あるいは、議会が新たに、それまでなかった法律を作るべく審議し、それを議員主導で法案を作り、各専門の委員会で可決し、さらに議会の本会議で議員全員で衆参各議院として可決するのが本来の立法権の独立した姿であるはずだ。しかし、実際にはそうでない。
 アメリカでは、立法、行政、司法の三権分立の通り、立法機能としての議会主導、つまり政治主導の立法活動が確立している。
 まず、立法活動でアメリカの議会の議員が、その時々の社会の実情を見て、必要な法律は何か、こういう法律があったらと思うものを検討する。例えば、経済関係の法を作りたければ、商務委員会で審議をし、法案を作るべく作業に入るのだが、その過程で法案の文言を作るが、議会が法律を作ったとしても、行政権である大統領府下の商務省が行政事務として、議会で作った法律を執行できなければ意味はない。そこで、前述の商務省の役人が、議会の議員の立法の趣旨を十分に鑑み、出来るだけ議員の意向通りに、また商務省の行政事務を行いやすいように工夫された法案の条文を作る。役所の人間が条文を作るのだが、あくまで議員の意向に従った議員主導、つまり政治主導の立法なのだ。
 一方、行政権である大統領は、法案を提出する事が出来ず、行政権としてこういう法律が欲しいという教書を議会に送る。  アメリカ議会での立法過程で、各省庁の役人が、自分達の都合の良いように法案の文言を作らないのは、三権分立の関係から、立法権を十分尊重し、議員の意向を尊重しようという良心と、議員の多くが大学院レベルで、法律教育をするロースクールを出た法曹資格を持っていて、優秀なる行政権の役人に、法案の文言を検討する過程で、主導権を握られないだけの知的能力を持ち合わせているからだ。つまり、彼らは役人の言いなりにならないのだ。
 ところが日本の立法過程では、本来、そうあるべきなのであるが、実際はそうなっていない。立法活動に於て、極端な官僚主導の立法過程なのだ。各省庁の担当部署の役人、つまり官僚が法文を作ったものを、行政府の法のチェック機関、つまり行政府、内閣の法律顧問である内閣法制局が作るべき法律上他の法とのかねあいで、問題がないかについて法案審査を経て、自らも議員である内閣総理大臣が、法案を国会に提出をして可決して成立させている。立法活動の九割近くが、各省庁の役人、官僚が作った法案、つまり政府提出の法案であり、残りの一割が議員が自主的に作った、いわゆる議員法案である。ついでに言うと、地方の議会は、その地域のみに適用する法、条例については、都道府県市町村レベルの条例のほぼ十割が、役人の作った条例案を、地方の首長である知事、市長、町長、村長、特別区の区長が提出するやり方で可決している。このことは、国も地方自治体でも、官僚や地方の役人が作った法案を通すための御用機関に、立法府である国会や地方議会が成り下ってしまっていることを意味する。
 そのような、政府下の役人、つまり官僚が草案した法案を議会、国会で可決する背景には、明治二十四年、大日本帝国憲法制定後、天皇を神格化した強い統制の元に、総理大臣以下行政府の下、議会は貴族院と衆議員の二院制であったが、立法も天皇の名の下の強い統制の基で官僚が立案し、それを議会で承認可決するやり方が確立した。
 これが戦後は、昭和二十二年に、現行の日本国憲法が制定され、天皇はイギリス国王の「君臨すれども統治せず」の地位に習い、国の象徴たる身分に替わり、名誉ある国権は、これもイギリスに習い、議会が議員の中から総理大臣を選び、半数は議員が大臣に任せる議院内閣制になった。これは、議会である国会が、行政権を議員から選出した総理大臣に内閣を作らせ、そこに信託する形になるので、法律も内閣下の各省庁の官僚が作った法案を、政府、総理大臣が国会に提出する、政府提出の法案が戦前と変らず主流となる。立法府国会は、それを多少修正する形を取って、可決するのが当り前となる。官僚主導の立法の定着である。
 この立法過程に於ける官僚主導を強化したのが、戦後の強い政府をめざし五期も総理大臣を勤めた吉田茂である。自らもエリート外務官僚として主要大使のポストを歴任し、政権を取った時も、自ら外務大臣を兼ね、戦後復興には強い官僚中心の政治、行政が必要と考え、官僚を大臣に抜擢、昇格させたり、官僚を辞した国会議員になった者を官房長官や重要大臣に任命した。この任命が、佐藤栄作、池田勇人であり、後に総理大臣になり、吉田茂に確立した官僚内閣、官僚主導の政治、立法が定着する。わずかの期間、自民党の党人脈内閣が出現した後は、池田、佐藤によって、吉田茂の官僚内閣、官僚主導の政治は、「吉田学校」と呼ばれ、受け継がれる。吉田茂に影響を受けた党人脈政治家が田中角栄である。
 そして、議会に於いては、官僚出身者の衆参両院議員で自民党内の有力派閥、「宏池会」を作り、官僚出身の大臣を輩出すべく、影響力を絶大なものにした。
 このような官僚内閣、官僚主導の政治や立法は、日本の政治に定着し、官僚は東大や京大など、優秀なエリート国家公務員として、政治家である大臣のブレーンとして、政策立案、立法、法案の起草へと権力を牛耳るようになる。
 また、官僚主導の政治、行政体制の中で官僚の権力は各方面に広がって行き、強大と言える様に思える程になって行く。
 まず、新たな法案を与党の政治家、内閣、各大臣が打ち立てたとする。そうすると、実際に実行するのは役所、各省庁の官僚であるのだが、議員の立案した政策は大まかで、役所の事情、つまり、役所の内部について知らないため、細かい所を詰めた立案が出来ない。つまり、役所が使えるような有効な内容とはならない。そこで、各省庁の担当の課長以上の官僚が、細かい所は役所の都合の良いように、政策内容を大幅に修正してしまう。
 この修正は、大義名分があって、一般職の国家公務員は中立でなければならない。いかなる政治活動もしてはならないという服務規定を逆手に取り、政治家である政府、内閣の政策意思は政治性があるので、内閣の意向は、役所の中立性を保つため排除せねばならないことを大義名分として、政府、内閣が作った政策を詳しく役所が使いやすいよう修正し、時には、各省大臣に対し、官僚が大臣を指南するようになる。絶対に政治家である大臣に口を挟ませないようにする。そのように横暴になっていくのだ。そのため、大臣が時として指導力を発揮できないのだ。その根底には、自分達は難関の国家公務員㈵種に合格したエリートであるので、知的能力が下の大臣には従いたくないという意識がある。
 それゆえ、大臣がそれまでにない政策をやろうと指導力を発揮しようとして、積極的に命令を出しても無視するか、自分達の主張を政治家より優っている専門的知識で反論し、言いくるめてしまうか、でなければ、あらゆる手段で抵抗をする。自分達の気にくわない大臣がいるとすると、スキャンダルのようなものをマスコミにリークしたりして、大臣を追い落とそうとするような行動に出る。この例は、小泉内閣での田中真紀子大臣の時の外務官僚の抵抗を見れば明らかだった。
 また、法案を作るのも官僚主導であることはすでに述べた通りだが、議員立法で政治主導で法案を作ることも可能だが、その場合、各省庁内の事情がわからない議員が自ら法案を作ると、各省内ではまったく使えないと官僚が言うような荒削りの法文になるので、国会には衆参両議院には法制局があり、立法過程にうとい各党の国会議員のために、立法活動をサポートし、法律案の文言、即ち条文を作る事務局がある。その衆参の法制局の事務官は、上級職の国家公務員であって、言わば、「国会の官僚」として存在し、彼らが作った議員立法の法案は、内閣の下の各省庁の官僚に負けないだけの各省庁でも使えるような条文が作れるのだが、たとえ議員立法として法律を可決しても、各省庁の官僚には既得権というのがあって、成立した法律を実際に各省庁で実行、即ち執行するための省令という規則制定権がある。この規則を作る時に、法律を自分達役所の都合の良いように、詳細に書き、当該の官僚にしか理解できないような難解な条文にしてしまう。各省庁の官僚の知的能力を駆使し、たとえ大臣でもわからない難解な規則を作って、大臣の政治的判断を挟ませないようにしてしまう。このようにして、可決した法案を、規則で自分達の都合の良いように作り変え、骨抜きにしてしまうのだ。
 このように官僚は、大臣の意向を無視し、自分達の省内の利害、都合の良いように専門知識を悪用し、大臣を支配しているのだ。まさに平安時代の官僚による藤原氏政治である。
 この傾向は、国会の弁論活動にも干渉してきた。国権の最高機関である立法府、国会の質疑答弁についても、官僚が主導権を握っている。政権党以下、野党の議員が国会の委員会で、各省庁の大臣に質問する時に、役人である各省庁の官僚が、若手を使って事前にその議員がどのような質問をするかを聞き出し、役所に持ち帰り、自分の所の大臣が国会の委員会で答弁しやすいように、想定問題を作るのである。これは、ある省の内部事情を知らない無知な大臣が、役所に都合の悪い質問を野党議員にされた時、無難に答え、かわすことである。大臣がヘタな答弁をして、各省の官僚が責任を取らされるようになったら大変である。それ故、大臣が支障なくスムーズに、また、無駄なことを言わないよう答えさせるためだ。議員が国会の各委員会で質問する前日まで、「想定問答」作りは行なわれる。夜中の二時、三時まで行なわれ、最終的には財務省の役人がチェックをする。議員の質問が予算の増大に関わるものだった時、大臣にヘタな答弁をされたら大変だからである。ここにも官僚が上位の者である大臣を支配している主客転倒の現象が見られる。
 さらに前述の省令、規則制定権を悪用し、事務次官になれなかった局長達を天下り先として、あまり必要でない官庁の外郭団体の特殊法人や社団法人を作って、規則で理事長や理事に据え、さほど働かなくても年間何千万の所得を稼がせている。悪法的規則で天下り先の給料を税金で払わせる、税金の流用である。
 また、予算獲得の仕事は、官僚の特権であり、それをどう使うかは、国会で審議されたり、内閣で計画したのではなく、施設建設など官僚の意志決定で自由に使う。国民から預った国民年金や郵便貯金などを好き勝手に使っているのだ。かって、社会保険庁があった時代に、不必要な簡保の宿を建設して売却したが、大損失を出した。
 これが官僚機構が、政治、立法、国会を支配する官僚主導の政治、行政、立法の実態である。
 民主党は二〇〇九年に政権を取ると、このような吉田茂以来の自民党政権下で長く続いた政府や大臣の言うことを聞かず、反対に官僚が自分達の都合のいいように政府や大臣を支配する官僚主導の政治や立法を極端に忌み嫌い、政治主導の政治、つまり、政治家が官僚を使わず政治家である政府、大臣が直接行う政治をやろうとした。これは、一つには、歴史的な自民党の大敗で、劇的に政権を取った民主党にとって、国民にアピールするためには旧態依然とした官僚主導の政治、行政を打破する必要があったからである。新たに政権を取った民主党が、強い指導力を発揮して、官僚を支配し、政策を行うことは望めなかった。そこで取りあえず政治家が直接行う政治主導の形を取ったのだ。
 そこで、国家戦略室を作り、その下に官僚を少し出向させ、政治家が直接政治をやる体制を取ろうとしたが、うまく行かず、他の政策、例えば子供手当などが実行出来なかったこともあり、内閣戦略室は形ばかりのものとなり、政治主導の政治はうまく行かなくなって行った。
 江戸幕府、徳川家康は、親兄弟でも敵となって憎しみ合って戦った戦国の世を早く終わらせ和平を取り戻すために、すぐかっとなり激情する日本人を、強靱統制による準軍事態勢である幕藩体制で平和を維持するしかなかった。それゆえ家康は、孔子学の応用、朱子学の林羅山の助言を取り入れ、外側で士農工商の厳然としたカースト、対内的には、親兄弟などの年功序列、親子の忠義などで日常生活を取り締ることで平和維持、つまり安寧を保った。
 この江戸幕府の社会統制は、明治維新によって倒されはしたが、孔子学の統制は今も厳然として国民の間に残っている。とりわけ強い統制で行政を執行する国の官僚機構では、先輩後輩の統制は厳しく存在し、そのため官僚による政治立法への統制は、盤石と言える程である。この江戸時代の幕藩体制のまんまの官僚組織では、確立されている官僚主導の政治へ、良識のある後輩が、政治家の言うことを聞こうとして正しいことをしても、先輩に対し逆ったと言って、出世コースからはずされ、閑職に追いやられた上、退職に追い込まれる。その良い例が、天下り先問題に強く批判し、事務次官から退職に追い込まれた元経済産業省の古賀茂明氏の例が好例である。マッカーサーがアメリカの州の憲法をモデルにして作った、自由、平等を唱った日本国憲法を打ち消すように、江戸時代の朱子学の幕藩体制が憲法の上に、古い慣習法として存在する。
 このような体制で民主党政権は、政治主導の政治を行ないたくても、それについて官僚主導打破をモットーとして新政策としているので、官僚を使って新たな政策を実行したくても、各省庁の官僚は使えない。さりとて、政府や大臣、議員が政治家として直接政策をやろうとしても、行政事務としてやるには限界がある。行政事務量が多いので無理なのだ。
 政治主導と言ってもやはり細かい所は書類を使うので、どうしても事務局は必要なのだ。いくら政治主導の政治と言っても、それを行政としてやるのだから、事務をやる官僚は最小限必要である。民主党政権で内閣の下に国家戦略室は、最小限、各省庁の一部官僚を出向させてはいたが、政治主導の政治をやるには不十分であった。それ故に、政治家主導の政治は遅々として進まなかった。
 それではどうすれば良かったかというと、各省庁の官僚とは別の官僚組織を内閣戦略室の中に作ることである。そこに於いて誰を使えば良いかと言うと、大臣の言うことを聞かない各省庁の官僚とは別個に、各都道府県、政令指定都市、市町村の優秀なる一般職の役人を選抜し、内閣戦略室に出向させるのだ。それらの自治体の優秀な人材を、日本全国、津々浦々の色々な自治体から公募、もしくは内閣が抜擢して、民主党政権の内閣戦略室に出向させ、各省庁の官僚組織と並列的に自治体出身者による新官僚組織を作り上げる。これにより政治主導の政治、つまり、政府や大臣の立てた政策を変えずに忠実に行政事務として実行する。そのことによって、財務省、厚生労働省、経済産業省、文部省などに対応する部署として戦略室に置くのだ。
 都道府県や市町村レベルの一般職の役人は、国の各省庁の官僚に負けないだけの優秀さは持っている。国の各省庁はたくさんの行政分野につき、機関委任事務と言って、自治体に委任して行政事務が行なわれている。保健医療事務、国民年金事務、建築事務、各自治体の教育委員会の教育事務、行政の委任、福祉行政、森林、緑化管理、旅券の都道府県への委任、建設(道路や橋など)の管理についての委任、などなど。中には国が地方自治体へ委任せずに、国の出先機関である地方局を置いて、国が直接やっているものもある。運輸局は、自動車やバス、鉄道、索道(ケーブルカーやロープウェイなど)、法務局による不動産や権利の登記事務などは例外である。
 それ故、機関委任事務で国の行政事務を代わりに行なっていたので、当該行政部門の法律にも精通しているのだから、内閣戦略室の出向で、各省庁の担当に代わって行政事務を執行出来るし、また新たな法案作りにも事務当局として十分、機能できる。
 また、民間会社の現職の優秀な事務系の社員や現職でない退職した優秀な適任者を戦略室に出向、任命してもよい。例えば、商社、建設業、旅行業(観光政策など)、農協(農政など)、水産会社など、その時々の政策に合わせて、それらの出身の適任者を選ぶ。
 その他に、ミクロ経済のスペシャリストとして、これらの業界新聞の記者を任命するとなお良い。
 具体的に自治体からの出向例を示してみる。ただし、都道府県や市町村の名前は、実際にそこから選べというのではなく、あくまでも仮に事例として述べたものである。
 例えば、民主党政権が経済政策をやろうとする。そうするために、経済産業省と同じような内閣の政策を実行する事務当局を内閣戦略室の中に作ったとする。すると、次のような布陣となる。財務担当者を東京都の担当者を、経済政策担当者を地域の経済政策について政令指定都市の横浜市からや大阪市の商工課の担当者を、そして経済計画の担当者を愛知県庁から、租税課の担当者を新潟県や埼玉県熊谷市役所の担当者を、国税の担当者を現役の国税庁の税務官か公認会計士、税理士から、雇用計画などは国に近い千葉県庁や北海道庁、京都府庁、福岡県庁、大阪府庁の担当を起用すること。また地域の経済振興には埼玉県の行田市とか東京都の五日市市、新潟県山越村からという風に、内閣戦略室の政治主導をする新官僚として政府の任命とするか公募したりする。
 もし福祉政策をするなら、医療についてなら、県立病院や村営病院、町営病院などの医者や病院事務長、ケースワーカー、医療担当者には都道府県レベルから群馬県庁、静岡県庁、福井県庁、兵庫県庁、そして健康保健については、神奈川県中井町、静岡県浜松市、その他山村の村役場から、老人福祉には長野県長野市、栃木県の黒磯市や宇都宮市、精神保健については県庁、例えば福島県庁、北海道庁、鳥取県庁、そして千葉県千葉市役所、神奈川県川崎市、福井県小浜市などの事務官やケースワーカー、また、町や山村の役場の職員などなど。そして介護には、県や市町村ばかりでなく、民間の介護会社、ツクイとかニチイの幹部社員、そして、国民年金等社会保険関係の部署には仙台市、札幌市、青森市、それに県庁から秋田県庁などの職員を当てる。また民間からは、社会保険労務士、行政書士、また海に関して特殊ではあるが海事代理士などを内閣の戦略室に出向させるのも良い。
 以上が経済と福祉政策を民主党が新たに政治主導でやろうとした場合、官僚が言うことを聞かず官僚主導になりやすい時に、前記のような地方自治体からの出向者や民間会社から出向をさせればよい。その他にも、文教政策などそれまでになかった新たな政策をやろうとし、かつ官僚と対立し、官僚主導しか望めない分野については、内閣戦略室に自治体や民間会社から出向してもらい、内閣の戦略室に各省庁のとは別の官僚組織を作れば良い。
 新しい政策で政治主導でやるのに、運輸行政については都道府県、市町村レベルの運輸の専門家は限られた分野にしかいないので、なかなか国土交通省に対抗する官僚組織を作りにくい。鉄道や船舶を使う海運については、機関委任事務として自治体に委ねず、国が直接地方局を置き、行政をやっているからである。それでも鉄道については、地下鉄を運行している都道府県や政令都市がある。例えば、東京都や大阪府、札幌市、横浜市など、このような政令指定都市からの出向が望ましいし、近畿日本鉄道(近鉄)、JR東海やJR西日本、東日本、阪急、阪神ホールディングス、京浜急行、東急電鉄、小田急電鉄などの大鉄道会社から人を出向させたりする。海運などは大きな船会社、山下汽船、日本郵船などからの出向を求める。バスについては、東京都や川崎市、大阪市、そして村、例えば埼玉県の両神村からの出向なども良いと思う。また、政治政策で宇宙開発を挙げるなら、宇宙開発事業団や東大の宇宙航空研究所などから内閣戦略室に出向してもらうのがよい。それで内閣府の下に新たな官僚組織を作るのが理想である。
 このようにして、新たな政策を民主党政権の時にやろうとしたなら多くの行政事務量になるはずである。従って、色々なもっと多くの自治体から行政法律職の事務系の職員を内閣国家戦略室に出向させなければならなかった。
 前述のように、地方自治体の職員を多く出向させることが出来るのは、一つには国から機関委任事務などに従事していて、当該省庁がやる事務を行なえる上、国家公務員に負けないだけの優秀さを持っているからである。
 新しい政策などをやる時に限って、官僚主導の政治になりやすい分野のみ、地方出身の役人や民間人による新官僚を内閣国家戦略室に作れば良いわけであって、すべての省庁に対応した新官僚を作るわけではない。
 政府が、あまり政治性がなく、また新たに政策をやろうとするものでない行政分野については、従来通りに官僚を使っても差しつかえない。法務行政、医療行政、建設行政などは、あまり新しいスローガンを挙げて政府がよほど改革などをする分野でない時は、従来通りの行政変更がない限り、これまでのように行政を各省庁の官僚に任せておけば良い。
 内閣の国家戦略室の下に政治主導の政治をやりたくても、地方公務員にできない行政分野がある。外交と防衛である。
 外交については、本省の事務官の他に、大使、公使、そして民間の交流や通商を使う総領事や領事の職を外務官僚が独占しているので、多くの自治体から外交については内閣国家戦略室に出向させられない。外交の経験が地方公務員には適任者がいないからだ。しかし、内閣が政治主導の外交をしたいなら、外務省OBや外交評論家国際法のスペシャリストである学者などで最小限構成すればよい。そして、地方出身の行政事務の役人として外交文書の作成に携わせるのもよい。しかし、よほど内閣が外務改革を唱えない限り、従来の外務官僚を使えば良いと思う。
 二〇〇一年の小泉内閣の田中真紀子外務大臣の時、田中大臣が強い指導力を発揮し、政治主導の政治を民主党の前に試みたが、古い体質の外務省の外務事官以下官僚が、大臣の政治介入はままならぬとして田中真紀子大臣の政治方針をまったく無視して対立し、大臣が辞めさせられる事態になった。その時に、外務官僚の腐敗した体質も露呈し、外務省の改革改善が行なわれたので、それ以後は多少は外務省もまともになった。しかし、まだ外務官僚の体質は残っているが、従来通り外務官僚を使うしかない。最小限、内閣の国家戦略室に出向させても良い。代わる人間がいないので外交関係は外務官僚を使うしかない。政治主導を発揮するとしたら、大使や公使の職に民間人をもっとたくさん起用すべきである。民主党政権になってから、中国大使に商社マン出身の人を任命したが、わずか三年ぐらいで従来の外務省の人間に交代した。
 大使、公使、そして領事の職については、外務職員の年功序列でやっていたので、その職を奪われることに抵抗はものすごい。外務官僚がそれらの職の独占をしていたのだが、大使、公使などの職は、相手国に於いて、日本政府の代表なので、これこそ政府の政治方針を外交に反映すべき場所である。そしてこれこそが内閣や外務大臣に大使、公使、領事に対する任命権、人事権があるのだから、政治主導でもっと多くの民間人の適任者を任命し、それを定着すべきである。
 次に防衛の行政分野にも集団的自衛権や自衛隊の改革など政治主導で行うべきものがあるが、どちらかと言うと国会に於いて、立法活動で防衛関係の是非を問う形式であり、従来から政府、内閣や大臣の政治主導の政治方針と防衛省の官僚や制服を着た自衛隊幹部との対立は見られなかった。やはり、防衛という軍事的に緊張した状態に対応すべきものだからである。
 従って、防衛問題を政治主導でやると言って、内閣の国家戦略室に防衛省以外の人間を出向させて防衛省の官僚と別個の官僚を作ろうとしても、せいぜい軍事評論家ぐらいしか適任者はいない。それに地方自治には防衛に詳しい役人は皆無である。防衛は、地方自治体には委ねられていないからだ。それ故、防衛は総理大臣を最高指揮官として命令系統にあるので、従来通り、その統制でやれば良い。
 このような自治体出身者や場所によっては民間人を国家戦略室の事務官に起用するメリットはなにかと言えば、民主党と言わず時の政権が計画し実行しようとした政策、政治を、自治体出身の国家戦略室の新官僚は、事務当局として忠実に実行してくれるということだ。これまでの各省庁の官僚のように、自分達の都合の良いように官僚の専門知識に物を言わせ、大臣を言いくるめ、政府や大臣がやろうとした政策を自分達の都合の良いように変えてしまう官僚主導を終わらせる絶好の機会である。
 そして、政策に必要な新たな法案を作るにしても、国会の議員の意向と法律を使う側の役所の間で協議して作る。前に述べたようなアメリカ議会での立法活動と同じ体制で確立できる。アメリカの各省庁と議員の協議によって法案を立法化するのだ。
 地方自治体の公務員は、国の機関委任事務で各自治体の役所で各省庁の官僚と同じように、行政事務として国の法を執行していたので、新たな法案作りについても出向した国家戦略室に於いて法律の文書を作る作業については、各省庁の官僚に負けないだけの技能はある。
 国家戦略室に出向した種々の自治体出身の職員達は、時の政権が必要な政策をやろうとして集められたので、各省庁の官僚のように江戸時代の徳川家康が敷いた厳然とした年功序列の基準に先輩後輩のカーストで統制され、先輩のやった行政方針は絶対で、先輩に対して良識のある正しい意見を言えば、逆らう、口答えすると言われる超固定的な官僚組織と違い、年功序列などがまったくない、平等で民主的な、また流動的な新官僚組織である。それだけに、政府がやろうとしている政策を忠実に行政事務として行なえる。丁度、民主党が政権を取った時、自民党が国会に於いての議員の能力に関係なく、議員当選年数のみの年功序列で大臣ポストを割り振っていたのを打ち破り、老若男女、年齢に関係なく、能力のある者を大臣ポストにつけたのが最大の特徴、功績であったが、それは民主党の議員が様々な階層、職種から構成されていたからだ。
 同じように多くの自治体の出向者で構成する新官僚組織も年功序列の旧習打破である。本当の意味の民主的な政治や行政事務の体制である。
 この他に、国家戦略室の中に自治体の出向者で固める新官僚組織を作ることは、地方公務員の国政参加、国の行政事務参加という大きな民主的な門戸を国の政府によって開かせることになる。これまで国会議員には、国の官僚出身者はいたが、都道府県、市町村レベルの行政職出身者は皆無と言っていいほど存在しない。そのような意味で、地方の国の行政参加は、下克上というほどでもないが地方の声を国に反映させるという意味で、超民主的で画期的なものだ。
 戦後日本は、マッカーサーの軍政下、より住民に密着したアメリカの各州の憲法を真似て、日本国憲法が作られたが、従来の国により地方を完全支配する強い中央集権国家であったのを改め、独立性のある地方自治が盛り込まれたが、未だ国の地方自治体への支配は根強く厳然とある。
 地方自治体の税収入は、三割税収と言って、その自治体が地方税として住民に税を課して自主収入を上げられるのは、わずか三割である。残りの七割は、国から税金補助で地方財政は賄なわれている。
 それは国が直接地方局を置いてやる許認可行政、例えば法務局や運輸局など以外は、本来、国がやるべき行政事務を、地方自治体に機関委任事務としてやってもらっている。それゆえ、その事務を執行するために、国が地方自治体に税金補助をしている。それが七割にも達する。そのため、地方自治体の役人は、国の役人の意向に従わざるを得ない。例えば、建前上地方自治があるので、各地方自治体は出来る限りその自治体に住む住民に合わせた行政をすべく自主的に意志決定をするはずであるが、税金を補助してもらっている関係上、国が行政方針を各地方自治体に通達して来た場合、通達には強制力がないにも拘わらず、従わざるを得ない。
 人事的にも国の地方自治体への支配は、未だ戦前のような主従の関係が続いている。戦前は、国の公務員を官吏と言い、地方の役人は公吏と言われ、国と地方の関係は強い上下関係が存在していた。そして、県知事については、旧内務省の上級職の国の官吏、つまり、官僚が国の命令で各県知事の職に就いていた。即ち、戦前は県知事は選挙で住民が選ぶ民選知事ではなく、官選知事であったのだ。この関係は、戦後民主化された地方自治体の体制でも続いている。旧内務省で、少し前の自治省、現在の総務省の高級官僚が県の副知事に出向しているし、旧内務省の警察庁の官僚が、市の助役に出向したりしている。また、総務省以外の官僚が、市や町の課長以上のポストに出向したりしている。
 このような未だ続いている行政事務の国による地方自治体の支配に対して、国家戦略室に多くの自治体の優秀な人材を集めて、政治主導の政治をやるための新官僚組織を各省庁の官僚と並列的に作ることは、前記の国の地方自治への支配を解消させ、下克上的に地方自治体の役人を国の行政事務に参与させる民主的なもので、大変意義がある。
 民主党は政権下でこの方法を思いつかなかったので実際にはやらなかったが、もし実現していれば、文字通り本当の意味で「民主党」であったのだ。
 内閣戦略室に地方自治体の公務員で作る新官僚組織を作ることは、長い間各省庁の官僚が大臣の行政方針、意向を無視し、自分達の都合の良いようにやりたい放題やっていた官僚主導の政治を終わらせ、官僚支配を骨抜きにするためには大変良い方法だ。政府の政策、方針を忠実に政治主導でやるため、国家戦略室に出向した地方自治体の役人に、その行政事務をやらせれば、従来通りに各省庁の官僚に行政事務を担当させない事であり、政府から無視されることになるので、官僚達は動揺することになろう。そして、従来のように官僚が政府や大臣の意向を無視して来たことを改め、政府の意向を聞くようになることだって将来あり得るのだ。
 ただ、国家戦略室の地方自治体の役人と、各省庁の役人との二重行政ということも懸念しなければならない。かつて、アメリカのカーター政権の時に、中国と国交回復のプロセスで、大統領府の特別補佐官室と国務省との間で、二重外交となったが、このようなケースも想定しておかねばならない。また、財務省が予算配分で抵抗し、国家戦略室の地方自治体の役人による行政事務に対し、十分な財源を与えないかもしれないが、総理大臣の指導力で解決しなければならない。
 一度、民主党が内閣の国家戦略室の下に地方自治体の役人で作る新官僚組織を作れば、後に自民党が政権を選挙に勝って奪回しても、そのような組織は定着せざるを得なかったと思われる。もし、民主党がやった地方出身の公務員で構成される内閣国家戦略室を、自民党が政権を取った後、以前のような政策を行うのに、以前のような固定的な各省庁の官僚を使い、旧態依然とした官僚依存の官僚主導の政治に戻したとすれば、再び腐敗した政治、政官癒着の政治となり、国民の批判を浴び、支持を得られることがなくなるので、民主党がやったような内閣の下に地方自治体出身者で構成した新官僚組織を引き継がざるを得なくなる。ただ、その場合、民主党の作った新官僚組織をそっくり使ってもよいが、流動的に自民党の政策に合った、違う自治体出身者を選んで、新官僚組織を作るだろう。この意味で、民主党が自治体出身者の新官僚組織をやって、日本に定着すべきであった。

(了)

参考文献
前野徴「戦後歴史の真実」扶桑社文庫 二〇〇二年
宮本政於「お役所の掟」講談社 一九九三年
渡辺正次郎「田中真紀子総理で日本はこうなる」日本文芸社 二〇〇一年
日本経済新聞社編「官僚」日本経済新聞社 一九九四年

(流星群第32号掲載)

世田ヶ谷一家殺人事件の犯人像

 世田ヶ谷の外資系コンサルタント会社に勤める会社員宮沢みきおさん夫婦、娘、息子一家四人が、平成十二年十二月三十日の深夜、何者か侵入者に刺殺されてから十三年も経つ。当初は、犯人が残した衣類や凶器などが多くあり、犯人の逮捕は早急に行なわれ、時間の問題だとされていたが、未だ解決はしていない。
 事件の概要は、年末の夜中の十一時以後に、背の高い、日本人ではあまり見られない、足の大きさが二十八センチの男が、宮沢家の家の側面の窓の鉄格子とフェンスから二階の鍵の掛かっていない風呂場の窓の格子を外し侵入し、中二階の子供部屋で眠っていた長男を刺殺し、その後、一階の仕事場にいた主人の宮沢みきおさんと一階から二階の階段で鉢合わせになり、宮沢さんを刺した。宮沢さんは足の腱が骨をえぐられる程だった。そして、中二階に戻り、三階の屋根裏部屋で寝ていた妻の泰子さんと娘をメッタ刺しにして殺害した。特に泰子さんは、娘を守るために、刺された後も犯人に抵抗し、百以上の刺し傷がある程だった。
 その後犯人は、母娘との格闘で大変疲れたのか、宮沢家のリビングに残り、冷蔵庫からカップ=アイスクリームを三つ、メロンなどを食べ、その間パソコンを使っていた。その後、ぐっすり眠り、夜が明けてから、犯人は宮沢家から逃走したという。
 犯人は、犯行現場に多くの遺留品を残している。二十八センチのバスケット=シューズ、帽子、マフラー、外套、トレーナー、ハンカチ、犯行に使った柳葉包丁、ヒップバックなどなど。その他に血痕や指紋もあった。
 これだけの犯人の遺留品や痕跡が残され、これらの証拠になると思われるものが多いので、犯人は早急に逮捕され、事件の解決は時間の問題とされたが、現実は警察が犯人に行きつかず、実に十三年もの長い間、未解決になったままである。
 警察が、未だ犯人に行きつかないのは、警察の捜査の手法が悪いというわけでもなく、また、警察の捜査能力がないというわけでもない。が、しかし、警察の犯人像の注目の仕方が、こんなに証拠があるのに誤っているように思われる。
 それは何かというと、警察が犯人は日本人と断定していることだ。日本人が犯人であって、少なくとも外人ではないと見ていることだ。警察がそう判断している根拠は、宮沢家に侵入し、一家四人を殺した後逃走するまで、疲れから夜が明けて明るくなるまで宮沢家の中に留まり、アイスクリームなどを空腹を満たすためほうばりながらパソコンの画面で、メールやインターネットの内容が日本語のものを見ていたことだ。
 しかし、この警察の日本人犯人説は、他の人種の可能性も含んでいるのに捜査を日本人に限定して捜査をしているので、結果として、十三年もの間犯人に行き当たらなかったように思われる。
 犯人像として考えるべきは、日本人だけでなく、外国人も視野に入れるべきで、それも米軍基地に勤務していた兵士をも考慮に入れるべきである。その場合、兵士の中には、捜査の対象として、白人、黒人、ヒスパニックと呼ばれるメキシコ系米人などの他に、日系人も考えられるので、幅広く捜査が出来たはずである。
 警察は、世田ヶ谷一家殺人犯人を日本人とした根拠は、犯人がパソコンの日本語のサイトを見ていたからというが、米軍基地の兵士の中に犯人がいるとして視点を広げれば、日系人の兵士なら日本語が理解できるので、宮沢家のパソコンを操作し、日本人が見るようなサイトやメールを見ていた可能性だってある。また、兵士が白人や黒人で、それが世田ヶ谷一家の殺人犯人だったとしても、米軍基地では日本のテレビ番組を見るべく案内をして、テレビ番組の解説や見方を兵士に指導しているので、日本の番組を見ている可能性もある。それは、一つには米軍兵士に、たとえ日本語がわからなくても、日本のテレビ番組を見て、楽しんでほしいということと、第二に、日本文化を日本のテレビを見て理解し、馴染んでほしいということがある。アメリカのテレビ放送が、なかなか見られないからだ。ポップスなど音楽を中心としたFENという駐留軍のラジオ放送は、日本人にも知られているが。
 世田ヶ谷一家の殺人犯人が外国人であり、また日系人であり、また米軍基地に勤務する兵士であることは、犯人が宮沢家の中で、残した血痕から検出されたDNAでわかる。
 DNAの鑑定で、それも人類学的鑑定によると、犯人の遺伝子は、父方が、「D3Eスター型」という特徴を持っているので、父方がアジア系人種であって、母方が南欧系であることがわかっている。つまり、犯人は、それらの混血である。
 日本の警察は、この遺伝子鑑定結果によって、日本人と欧米人の混血か、他のアジア人朝鮮人か中国人と南欧系の混血外国人としている。しかし、これは広く社会一般を見た場合の犯人が、日本にいる混血児であるとか、アジア系混血児とかいっているのであって、もっと狭く絞ってみて、在日米軍基地のそれも横須賀基地か座間基地の兵士でカリフォルニア州あたりの出身で、日系米人とヒスパニックと呼ばれるメキシコ系米人か、又はイタリア系米人のどちらかの混血であって、それも低所得者階層の出身であろう。兵士が低所得者出身というのは、アメリカで兵士に応募入隊する大きな一般的動機の一つとして、一定期間兵役について、問題を起こさず、何事もなく平穏に除隊すれば、名誉除隊として国、連邦政府から大学や専門学校など、その後進学すると、学費を出してもらえるからである。つまり、低所得者であって貧しく、授業料などを払えなくても、連邦政府の援助で払ってもらい大学など高等教育を受けられるからである。
 米軍基地内の兵士が宮沢家の殺人をやったであろうという証拠は、遺留品の中にある。まずアーミー=ナイフという米軍内で使われる軍事用ナイフがあったこと。それと、宮沢夫婦を刺し殺そうとした時、夫妻の反撃にあい、自分自身も切り傷を負った。その際に、とりわけ、娘を守ろうとした妻泰子さんの母性本能はすごく、全力で犯人に抵抗し、力尽きて刺殺されたといわれている。犯人は泰子さんから受けた傷を手当てするのに、娘さんが使っていたティッシュペーパーを使って血を拭い、さらに止血するのに軍隊で使われている止血剤や麻酔系の薬剤、ベンセトリンが使われていた。これは、ボクシングなどで相手のパンチ攻撃で顔面を切って流血を止めるためのワセリンと共に、米軍でお馴染みなものだ。これからも犯人が米軍基地内の兵士であったことが窺われる。
 さらに、宮沢一家の殺人の犯人が、カリフォルニア州の日系米人とメキシコ系米人の混血であることを強める要素は、犯人がスケート=ボードに乗って遊んでいる人間であることがわかる。犯人が宮沢家に残していたヒップ=バックの中から、スケート=ボードに乗るための靴の底が滑らないようにする粉が見つかっていることだ。
 それと、宮沢家の殺人が行なわれる前に、宮沢家から少し離れた空地、広場のようになっている所で、黒い服のアジア系の不良グループがスケート=ボードに乗っており、その音が回りの家で騒音を起こし、宮沢家にも悪い影響を及ぼした。そのことで主人の宮沢みきおさんと口論となって、トラブルがあったと言われている。その中の一人が犯人と思われ、警察もアジア系の不良だとしているが、むしろ、その中の一人が、犯人として、前述のカリフォルニア州あたりの出身の日系人とメキシコ系米人の混血の兵士の若者ではないかと思われる。
 なぜならば、宮沢みきおさんと口論していることから、会話は日本語で行なわれているが、カリフォルニアあたりのヒスパニックと混血の日系人であるなら日本語が出来ることも考えられ、同時に英語やスペイン語を話すこともできる者である可能性がある。  この時の宮沢みきおさんとのトラブルが、宮沢家への怨みとなり、お金目当ての犯行と共に、一家皆殺しの惨殺となった。憎しみと同時に、お金を奪っているのが、日本人の殺人の仕方と異なる点でも、犯罪の手口が外人のやり方で、これまでに述べて来たカリフォルニア州あたりの出身の日系人とメキシコ系米人との混血の米軍兵も当然、該当する。日本人の犯罪の手口として、怨念、怨み、憎しみで殺す場合は、感情のみによる犯行などで金品を奪った例はあまりない。金品も奪っていることから考え、物質欲のあるアメリカ人的な犯罪の性質である。
 さらに、犯人が宮沢家に残して行ったものの中で、トレーナーとヒップ=バックの中からカリフォルニア州モハヴエ砂漠の南西部にあるエドワード空軍基地の砂が見つかっている。合わせてネバダ州の砂も見つかっている。このエドワード基地の近くにスケート=ボードの大会が開かれている。このことから世田ヶ谷一家の殺人犯人は、カリフォルニア州出身の日系人とヒスパニック、メキシコ系米人の混血で、同州のエドワード基地に勤務した、あるいは、そこで入隊した人間の可能性があることがわかる。
 また、一説には、キューバのグアンタナモ基地の砂も見つかっているという。これは犯人が、その基地に勤務した経験もあることが推定される。日系人とメキシコ系の混血ならスペイン語が話せるから。
 その他に、犯人が宮沢家に残していった物の中に、英国ブランドの韓国製のスラセンジャーのスニーカーがある。この足の大きさが二十八センチあり、日本では二十七・五センチまでしか販売されておらず、ということは、韓国で買ったか、日本米軍基地で購入したものかになる。二十八センチの足の大きさは、一部のバレーボール選手やプロレスラーが特注するくらいで、日本人の大きな各種スポーツ選手でも二十七センチがせいぜいであるという。
 そうなると、世田ヶ谷一家殺人犯は、米軍基地の兵士ということは、これからも証明される。米軍基地内の売店なら多くの韓国製の製品も売っているし、靴も例外ではない。
 靴が韓国製だということで、警察は、犯人が宮沢家の近くでスケート=ボードを乗り回していて、みきおさんとトラブルになった若者で韓国人がいるとみて、韓国警察に問い合わせたが、そのような人間はいないという回答を得た。韓国内で二十八センチの大きさは稀であると思われる。やはり、犯人は米軍基地内での人間で、靴もそこで購入したと思われる。日本の米軍基地内だけでなく、韓国の基地にかつて勤務し、その後日本の基地へ来た兵士である。
 以上のことから、世田ヶ谷一家殺人犯は、日系人とメキシコ系米人の混血、カリフォルニア州あたりの出身で、カリフォルニアで米軍に入隊し、場合によってはキューバのグアンタナモ基地に勤務し、また韓国にも勤務し、日本の米軍基地へ転勤になって来た者となる。二十八センチのスラセンジャーのスニーカーを日本の販売店で見つけても行きつかないわけである。さらに、その兵士が日本のどこの基地に勤務をしていたかを示す証拠が見つかっている。それは、犯人が宮沢家の中に残して行ったジャンパーのポケットの中から、三浦半島の北下海岸、三浦海岸、馬堀海岸の砂が見つかっている。
 米軍基地内の兵役は大変苛酷で、常に緊張を強いられる。それゆえ、基地内では休日には精神の保養として、近くに電車などで気軽に行ける行楽地、保養地として三浦半島の海岸や江の島などへ行くことを奨励し、行楽地の案内を積極的に行っている。従って、馬堀海岸はかつてのような大きな海水浴場ではなくなり、住宅が建て込んでいるが、三浦海岸や北下海岸は、海水浴が可能だ。かって筆者は、久里浜の近くの海岸で、横須賀の米軍基地内にいる兵士に英語で聞いたことがあるが、基地内では逗子海岸や江の島、横須賀沖の猿島(米軍はモンキー=アイランドと呼ぶ)、その他の海岸を紹介しているという。
 このことから、三浦半島の海岸から、砂が見つかったということは、近くの米軍基地の兵士が世田ヶ谷一家殺害の犯人であることを示している。この三つの海岸では、横須賀海軍基地の兵士なら、横須賀線や京浜急行で手軽に行ける距離にあるが、世田ヶ谷の殺人現場の宮沢家への交通は、小田急線であることから考えると、座間陸軍基地か厚木空軍基地の兵士である可能性もある。横田空軍基地は交通の便から考えられない。
 他にもう一つ、宮沢家一家を殺害した人間が、米軍基地の兵士である可能性がある証拠物件として、犯人が宮沢家に侵入して、持ち込んだ凶器、「柳葉包丁」がある。犯人が持って行った、通称、俗に「刺身包丁」と呼ばれる先が尖っていて細長く、刺せば人の胴体に深く入るものである。このことから言えることは、犯人が宮沢家に侵入する前から、人を殺す意志があったことを示す有力な証拠だ。これが、果物ナイフを外から宮沢家に持ち込んだとすると、たとえ殺人行為を行っていたとしても、「初めから殺すつもりではなかったが、成り行きで相手と格闘になり、傷つけるつもりが、結果として刺し殺してしまった」と言い訳が裁判の公判や警察の取調べで、できてしまう。柳葉包丁を殺人犯人は、宮沢家四人を殺害するのに使ったが、細いのですぐ折れてしまい、宮沢家の台所にあった文化包丁を代わりに使い、四人にあれだけの傷を負わせて刺殺したのだ。だから、あれだけの無数の傷を一家四人に負わせれば、「結果として殺してしまった」などとの言い訳は、犯人は出来ない。
 犯人が宮沢家に持ち込んだ柳葉包丁、通称「刺身包丁」は、関孫六銀寿包丁で、日本製と思われるので、世田ヶ谷一家殺人を捜査する所轄警察署などは、銀寿包丁を販売している刃物屋をいくつかあたったが、包丁の購入者から犯人には行き着かなかった。この捜査は手詰まりになっているようだが、別の視点を持たないからだ。
 銀寿包丁は、日本だけで売られているのでなく、アメリカでも売られているもので、少なくとも三十年も前から売っていた。筆者は約二十年余前に、アメリカのテキサス州の大学院で留学していた時、部屋で銀寿包丁が�GINSU KNIFE�として、テレビの通販で、その切れ味をテレビで実演放送をしていた。丁度、日本で言うと、日本直販とかジャパネット高田などのテレビ通販と同じようなものを、アメリカのテレビでやっていた。故に、アメリカで売っているので、日本の米軍基地内の売店で売っている可能性も大であって、そこで購入した銀寿包丁を持って犯人が世田ヶ谷の宮沢家へ侵入したことが考えられる。このことも一家殺人犯が米軍の兵士である可能性がある証拠である。警察も柳葉包丁の購入ルートを捜査する場合、米軍基地に捜査の目を向けるべきだ。
 犯人と思われる若者が、唯一姿を現わした可能性がある。それは、日光の東武鉄道の駅の駅務室に、背の高さや足の大きさ、そして服装などが、世田ヶ谷一家殺人犯と思える三十才ぐらいの男が、刃物か何かで手が骨まで見えるほど切れている手を駅務員によって応急手当てされ、名も名乗らずに立ち去ったという。この風貌が、外人風にも日本人風の混血児だったという。そして、現われた時刻が、丁度宮沢家を去り、約六時間の年末三十一日の夕方頃であった。この日光に犯人とおぼしき若者が現われたのも、米軍基地の人間である可能性が高い。なぜならば、日光が基地内で休暇として、保養のため軍務を離れるため一番近く、行きやすい有名観光地として奨励されている場所なのだ。
 このことは、すでに述べた通り、横須賀基地などでは、三浦半島周辺の海岸の案内をしていると同時に、大型ツアーとして日光ツアーも勧めている。やはり、日光東照宮の陽明門の文化的価値、特に彫られた三猿「見ざる」「聞かざる」「言わざる」や陽明門を「日暮しの門」と呼ばれるくらいの一度は見るべき所としてのすばらしさは、米軍基地に勤務している兵士なら誰でも知っているほどに浸透している。
 駐留米軍のラジオ放送を聞いていると、日光や苗場スキー場などは、オフ=シーズンの旅館の空いている時に格安料金で行けるので、米軍兵士のためのツアー参加者を募集している。参加希望者は参加者リストに署名、サインしなさいという案内をしている。
 このことから、東武日光駅の駅務室に現われて傷の手当てを受けた手の大きな男は、その後立ち去った後、行方がわからないが、米軍に従軍する兵士であることの可能性は大で、風貌も外国人風だったとある。その後、この情報を受け、警視庁の警察官が行ったが逮捕できなかった。
 この世田ヶ谷一家殺人犯と思われる人間が日光へ行ったのも、日光の知識のある米軍兵士だからこそ、宮沢家から去り、小田急線、地下鉄と乗り継ぎ、東武線に乗り込んで日光へ辿着いた可能性がある。その後姿を消したまま、この人物の行方は知れていない。
 その他に、直接米軍基地の兵士と呼べるものではないが、間接的な状況証拠がいくつかある。
 先ず、殺害犯人が、宮沢家に風呂場の窓から侵入して長男を殺害したり、母娘を殺害したりした時、中二階の中心に残した足の動きが、バスケット=ボールをやっていた者だという動きをしている。長男、母娘を殺害した足の床への置き方が、バスケット=ボールのピボットのような動きが見られ、大変無駄のない要領のよい動きをしている。犯人は、バスケット=ボールの心得がある人間ということになる。
 これらからは、米軍兵士であると特定できる証拠ではないが、二十八センチのシューズを履いて、宮沢家の中二階の風呂場に侵入していたことをも合わせ、米軍の兵士である可能性も含んでいる。バスケット=ボールは、アメリカ人にとってものすごくやられているスポーツだから。もちろん、日本にいる他の西洋人の可能性もあるが。
 次に、犯人が破り捨てたと思われる紙の片が数多く、宮沢家の風呂場の湯舟の水面にまき散らされていた。これは、犯人が、お金を奪って逃げて行ったことから考えて、初めは宮沢家の戸棚などにお金を物色したが見つからず、その腹いせに紙を破り捨てて、湯舟にまき散らしたと思われる。このようなシーンは、日本のテレビで放送している洋画は、殆んどアメリカ映画だが、時たま、アメリカ人の俳優がバス=タブに紙の片を破りまき散らしているのを見かける。アメリカ人がよくやることで、これによって、犯人はアメリカ人であるということで、米軍基地の兵士とは特定できないが、その可能性を含んでいる。
 もう一つ、犯人が宮沢家の母娘を殺した後、夜が明けるまで居座って、パソコンを見たり、宮沢家の冷蔵庫からアイスクリームを三つ、手で握りつぶすように食べていたのが確認されている。この握りつぶし、ほうばる食べ方が、アメリカ人独得な食べ方で、日本人などは、まずやらない。当然、米軍基地の兵士の可能性も十分ある。アイスクリームをほうばったり、長時間宮沢家に留ったのも、娘を殺そうとし、母親泰子さんに娘を守ろうとした母性本能から物凄い抵抗をされ、百以上傷を負わせ格闘したため、ぐったりと疲れ、お腹が空いたからで、何時間も宮沢家に留った理由である。警察はこのことも理解していなかった。
 以上のことから、世田ヶ谷一家殺人犯を米軍基地兵士の可能性が大であるのに注目せず、日本人と見なしたことが、警察が十三年もの間犯人に辿着かなかった理由である。犯人が米軍兵士であることに注目するのが大変遅れてしまい、また、日米軍事協定、秘密主義の壁が高いが、外交ルートを使っても、犯人をつきとめて解決に向かって欲しい。

(了)

参考資料
平成十三年一月一日〜三日までの産経新聞、毎日新聞、朝日新聞
Web SITE
 世田ヶ谷一家殺人事件
 未解決事件、世田ヶ谷一家殺人事件・犯人は誰 NAVER
 世田ヶ谷一家殺人事件 WIKIPEDIA

(流星群第31号掲載)

日本の北方領土に関する対ロシア外交の二つの方法

終戦間際になって、ソ連はアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスの首相チャーチルとソ連のスターリン総書記とのヤルタ会談によって、ヒットラーのナチス軍を倒し、また日本を敗戦に追い込むため、ソ連が参戦した。その見返りに一九〇四年に日本が取得した島は、つまり千島、南樺太を戻すという密約に基づき、ソ連は昭和十六年に日本とソ連との間に締結した日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、対日宣戦布告し、それまで日本の領土であった南樺太、択捉島、国後島ばかりでなく、元々千島諸島でない歯舞、色丹島にも侵攻した。さらに北海道をも軍事占領しようとし、以後、前述の北方四島を軍事上、実効支配を続けた。これに対し、日本政府は四島の不法軍事占領だとして、ソ連、ロシア政府に対し、四島からの軍事撤退と即時返還を交渉するも、現在に至るまで、ロシア側はいっこうに返還に応じない。一九五六年に当時のスターリン書記長とグロムイコ外相の提案、千島列島には属していない歯舞、色丹二島を返還し、戦争を法律上、正式に終結を意味する日ソ平和条約を提案して来たが、日本政府は四島一括返還を主張し、これを拒否し、以後、フルシチョフ、コスイギン、ブレジネフ、チェルネンコ、そしてゴルバチョフ、エリツィンと来て、その後プーチン大統領に至るまで、日本の北方領土返還交渉は殆ど進展しなかった。
 エリツィンからプーチンに代ったあたりから、北海道に引き揚げている北方領土にかって住んでいた島民の墓参などを目的として帰郷のための北方四島へのビザなし渡航、そしてロシアの排他的経済水域での日本漁船の操漁などが実現したが、漁業については、後に漁船が銃撃、拿捕されるトラブルもあり、中止を余儀なくされた。これはサハリン州や千島列島の行政の長が日本漁船の操業やビザなし渡航をロシア中央政府が許可したことに反対し、ビザなし渡航と漁船操業を認めなかったことによる。
 その後、福田康夫首相の時に、同首相がロシアを訪問し、千島列島の二島や他の二島の北方領土返還についての話し合いを行う旨、ロシア側から申し入れがあり、そして麻生太郎首相の時に、これもロシア側からサハリン州へ同首相を招いて、千島と歯舞の返還についての話し合いの実行があったが、どちらも妥協には至らなかった。
 この間に、ロシアの政権も、プーチン大統領からメドべージェフ首相、メドベージェフ大統領、プーチン首相、そしてプーチン大統領、メドベージェフ首相と数年のうちに、せわしく交代したが、メドベージェフが大統領になってから、二〇一一年にロイター通信に対し、北方領土の軍事力の強化を宣言し、また二〇一二年二月には、ロシアの戦闘機が日本の領空に入り、日本の自衛隊機がスクランブル発進をしたり、同大統領が直接北方領土を訪問し、ロシア領であるという事を強調した。これに対し外務省はロシア政府に対して猛抗議をし、菅直人首相は、「許しがたい、無礼だ」と不快感を示した。
 この時以来、現在までロシア政府の首脳は北方領土については「テコでも動かず」、「ここはロシア領土だ」という強硬な姿勢であった。
 ところが、二〇一三年の四月になって、北方領土に関するロシア政府の姿勢が急に軟化したのである。プーチン大統領は日本への北方領土問題に対して急に譲歩したのである。プーチン大統領によると、北方領土について、ロシアと日本の双方が利益になる形で国境を定めるというやり方で、柔道をやっていたプーチン氏が日本語で「引き分け」という言葉を使った。具体的には、歯舞、及び色丹島、国後島は日本にそっくり返し、択捉島の西三分の一の所で、ロシアと日本の国境線を引くというもので、かなり日本に譲歩した案であった。
 わずか半年前(平成二十四年秋)までは、「北方領土はロシアの物で、なんとしても返してなるものか」という態度であったのが、なぜ、今年(二十五年四月)になって豹変したのだろうか。平成二十五年四月二十九日にロシアを訪問した安倍晋三首相とプーチン大統領との合意内容を見てみると、ロシアは東シベリアとサハリン州のガス田開発の技術援助と石油の開発、それらの日本への輸出を求めている。日本側からの見地からすると、二年前の東日本大震災で原子力発電所の崩壊により、同発電所が全国的に廃止されるかもしれないという危機感から、ロシアに安価なエネルギー輸入の活路を求め、ロシアと利害が一致したということだ。また、日本はロシアを自動車マーケットにし、自動車の輸出先として確保したいこと、中国の軍事力の強大化と周辺諸国への領土侵略が、ロシア、日本双方に脅威であるので、双方の国で中国を牽制すること、日本とロシアでスポーツや文化交流をすることを合意したのである。
 ロシア側が、東シベリアや極東の天然ガスや石油を日本に買って欲しいという思惑の裏には、アメリカで安価な大量のシェールガスの層が見つかり、そのガスを抽出する技術が開発され、他のエネルギー源より安価で供給できるようになり、ロシアの天然ガスがヨーロッパ諸国に売れなくなった事情があると言われる。それ故、日本に天然ガスや石油を買って欲しく、そのためには、北方領土問題でロシアが日本に対して強硬な姿勢を取っていたのでは、それが実現しない。そこで、プーチン大統領が、北方領土に関する姿勢を軟化させ、「引き分け」案により、日本とロシア双方に利益となるような国境線を引く、前述のような提案をして来たと言われている。これに関しては、安倍・プーチン会談では何も合意しなかった。
 しかし、北方領土に関して日本にプーチン大統領が、「引き分け」案を提示し、大幅に譲歩した裏には、もっと深い思惑がある。それは、三月二十五日に於ける南鳥島沖の海底に広大な深海底より、約十メートル下に莫大な量のレア=アースが埋蔵されていることが、独立法人日本海洋開発機構と東大理工学部の海洋資源工学の教授によって、深海探査船を使った調査でわかった。その含有量は、中国が世界の九十七パーセントを占め独占していたが、それの二百三十年分もの巨大な量に当たるという。これにより、中国が自国で産出するレア・アースを独占し、売り渋り、輸出制限をし、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国が反発していた構図を崩し、日本がレア・アースで一躍、資源保有国になったことを意味し、中国を押え、外交上強い立場に立つことになった。
 ゆえに、ロシアのプーチン大統領が北方領土に関して日本に譲歩してきたのは、一般には前述のようにヨーロッパ市場に於いて、天然ガスの市場を失ったので、日本にそれを買ってもらいたいからだと言われているが、心の底にはもっと深い一物があるのだ。それは大国ではあるが、未だ発展途上国であるロシアが、将来完全なる工業化するためには、日本で新たに発見された、ハイテクに必要な莫大な埋蔵量のレア・アースを、大量にかつ、安く日本から売ってもらいたいからだ。そのためには、将来のレア・アース輸入を見越して、プーチン大統領は北方領土に関する対日本への態度を、強硬から柔軟に、さらに譲歩的にならざるを得なかったと思われる。
 レア・アースとは希土類元素鉱物の一レアメタル中の元素で、セリウム、イットリウム、スカンジュウム、ランタンなど多くの金属元素を意味し、レーザー光線、蓄電池、光ファイバー、光ディスクなど主要工業化に必要で、かつ、ハイテク使用に不可欠な物である。
 このロシアの日本に対する北方領土に対し、態度を急に変え、譲歩して来たのは、三月二十五日に南鳥島の周辺でレア・アース発見のニュースが流れてからすぐ後であった。このロシアの事情、思惑を理解すれば、レア・アースの資源を対ロシアの北方領土交渉の武器にすれば良いのだ。四月二十九日の安倍=プーチン会談では、プーチン大統領の提案の「引き分け」案、即ち択捉島の西三分の一も日本領とし、国境線を定める案に関して、何も合意していないが、たとえプーチン案を飲んで択捉島の国境線を引いたとしても、レア・アースを手段とすれば、ロシアに対して「レア・アースを他の国よりも安価にかつ、優遇して大量に売ってやるから、売って欲しいなら、残りの択捉島の東三分の二を日本に返還せよ。そうしなければ、レア・アースをいっさい売ってやらないよ」という交渉ができるのだ。
 そのためには、南鳥島沖の海底で発見された莫大なレア・アース資源を海底で埋蔵させたまま眠らせたのでは、対ロシア外交の武器としては使えない。それゆえ、早急に生産を開始しなければならない。それには、一番望ましいのは、外務省などが政府、内閣に進言し、閣議決定をして、経済産業省が中心となり、民間企業の資本と技術の参加を呼び掛け、「レア・アース資源開発公社」のような組織を設立し、埋蔵量の部分的であっても、対ロシア外交の手段として使えるだけの量のレア・アースを産出すべきである。
 もう一つ、北方領土に関して対ロシア外交の方法がある。これまでの行政権である政府や外務省による対ロシアの粘り強い外交交渉だけでなく、司法権によるソ連やロシアによって不法軍事占領されている北方領土の土地に関して、裁判所の訴訟裁判権によって、判決による主権主張をすることである。現在、日本政府は、国後、択捉島、歯舞諸島、色丹島を軍事占領しているのを不法だとし、ロシア政府に対して、「すみやかに軍事撤退し、北方四島を返還せよ」というのが、外交交渉の行政権による主権主張だが、もう一つ、裁判所の訴訟上の裁判権による主権主張があるが、次の通りである。
 終戦時、北方四島の旧島民は、ソ連の同島への軍事進攻により島を追い出され、自分達の島の土地を手放し、対岸の北海道の根室などに引き揚げざるを得なかった。そして、彼らの北方領土の島の土地の所有権に関する権利は、北方領土に対峙し、遥かに島々を望める根室市にある法務局の登記簿に記載されている。
 これだけでも、旧島民個人による北方領土の島の自己の土地権利主張が成り立ち、また行政権の地方局である法務省法務局による旧島民の北方領土の島の土地権利の承認であって、政府、外務省の外交交渉の行政権による北方領土に対する主権主張と別個の法務省による行政権の主権主張であるが、さらに旧島民が裁判所に北方領土の土地の権利を主張して、民事訴訟を起こし、判決を勝ち取って、司法権による主権主張をすべきである。
 具体的には、旧島民や死んだ旧島民の遺族が根室の法務局の登記簿にある旧島民の北方四島の土地所有権を民事訴訟法に基づき、日本政府の主張通り、旧島民の土地を軍事不法占拠しているロシア政府と軍隊、サハリン州知事や千島列島の知事、現在の旧島民の土地に住んでいるロシア人住民を相手取り、土地所有権確認訴訟を根室地方裁判所に起こすべきである。この方法だと、被告のロシア政府や軍関係者、ロシア住民が不法占拠を北方領土にしていなく、占拠は合法だとしているので、裁判被告として出廷しない可能性もあるが、不出廷の場合は、法律上「擬制自白」といい、相手の訴えた内容を認めたことになり、原告である旧島民の勝訴となり、地裁レベルで確定判決になる。それが嫌でロシア側が出廷した場合も、地方裁判所では原告の旧島民の勝訴となる可能性があり、さらにロシア側の高等裁判所や最高裁判所まで訴訟や上告されることがあるが、旧島民が勝訴になる可能性が高い。
 ただ、ロシア側が被告として出廷した場合、原告の旧島民側は証人として、外務省のロシア課の事務官に証言させ、ロシアの北方四島の不法性を訴えるが、ロシア側がヤルタ会談やポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約の北方領土の文言のあいまいさを主張し、ロシア側の北方四島の占領の合法性を主張した場合、わずかに裁判官がロシア有利の判決を下す場合もある。万が一、ロシアの主張を根室地裁が認めた判決を下した場合、地裁でロシア政府と日本政府外務省の北方領土に関する国際法に関する主張の対決となり、根室地方裁判所がロシアの国際法の解釈を合法とする判決で認める形になるが、そうなることは稀であり、大概、日本側や旧島民の主張通りに判決を下す可能性がある。日本の法律を遵守し、判決を下すであろうから。その上の高裁や最高裁でも同様になろう。
 裁判所の判決による北方領土の司法権による主権主張は判決文を被告である敗訴したロシア政府以下関係者に直接手渡すことも可能だが、ロシア政府側がこれを無視したり、拒否したりしてやや弱いが、これを日本政府や外務省の行政権の外交交渉の場で、司法権による判決文を示してロシア側に手渡せば、行政権による外交交渉による北方領土に関する主権主張と司法権判決による主権主張と二つを合わせてやることになるので強力なものとなろう。
 この司法権の判決によるロシアに対して、日本の北方領土の主権の主張方法について、以前、総理府の「北方領土対策室」に電話で進言したが、行政権者である日本政府は、「ロシアを刺激するので好ましくない」との消極的回答であった。行政権者である政府は、前述のように、ロシアを裁判の被告に出し、また、日本政府も対決することを恐れたのか、司法権による主権主張をしようとはしなかった。旧島民に原告となる事を支援もしていない。絶対にやるべきだと思うのだが。

参考文献及び資料
金子俊男「樺太一九四五年夏」講談社 昭和四十七年
ボリス=ステラヴィンスキー、加藤幸廣訳「千島占領、一九四五年夏」共同通信 一九九三年
「北方領土、歴史と文献」政治経済研究会 一九九三年
WEB SITES
�KURIL ISLANDS DISPUTED�WIKIPEDIA
�稀土類元素�WIKIPEDIA
�ASAHISHINBUN�RARE EARTH TREASURE TROVE FOUND IN SEABED NEAR MINAMI TORISHIMA 3月24日
TODAY RESEARCH 南鳥島沖で世界最大濃度のレアアース発見 2013年7月23日
CECILIA JASMIE�JAPAN,S MASSIVE RARE EARTH DISCOVERY THREATENS CHINA,S SUPREMACY� MARCH25

(流星群第30号掲載)

高価な箱庭セットに代わる誰でも 安価に行なえる代替箱庭療法

 現代はストレス社会である。多くの人々は、職場に於ける仕事や同僚との職場環境、家庭での人間関係、老いた親の介護など、いつも精神が休まることのないほどのストレス、つまり医者の治療を必要とする程のゆとりのない精神的緊張に囲まれている。
 順調に働いて生活をしていた人が、ある時、うつ病になったり、神経症(ノイローゼ)などいわゆる精神疾患の病気に罹り、通院して薬をもらったりする。場合によっては入院しなければならなくなる。
 誰もが、仕事が終った後、すぐに家に帰りテレビを見たり、一時間でも好きな趣味でも楽しみ、その醍醐味を味わったりできれば良い。日曜日はぐっすり眠り体を休め、散歩をしたりして、自由な時間に好きな事に没頭したりして気分転換できれば、心身の健康が維持できる。
 しかし、日曜日さえも付き合いで外出せねばならなかったり、場合によっては、その日も出社し、多くのたまった仕事をデスクでやらなければならなかったりする。これでは、仕事などで緊張した精神は休まることがなく、蓄積したストレスは取り除けないばかりか、貯まるばかりである。
 ストレスを取り除くための休養(眠ることも含めて)、趣味など好きなことをしたり、散歩やリクレーションなどとして、簡易なスポーツをやるなどをすればよいが、それらをやるためには費用が掛かったり、前述のように仕事に追われ、また家庭の事情によって、趣味などの気晴しに時間を割くことが出来ない場合が多い。
 そこで、少しの時間でストレスを取り除き、心の中の緊張を取り除く方法として、箱庭療法がある。
 私は一九九七年から九八年に掛けて、神奈川県立高校のいくつもの学校が、自分の学校に勤める教員を講師にして、学校教育以外の内容で特色のある生涯学習として教えるコミュニティー=スクールに参加した。そこで、ある高校で元々は理科の先生であるが、校内でカウンセラーをしている人が教えるカウンセリング入門を受講することになった。
 折りたたみ椅子を並べて、数人で行うグループ=カウンセリングであるエンカウンター=グループで、一対一のカウンセリング技法であるロール=プレイング、そして箱庭療法を学んだ。
 グループ=カウンセリングは、場所と数人の人数が必要なので、家庭で一人でやれない欠点がある。一対一のカウンセリングは、心の悩みのある人、精神的にノイローゼなどになっている人が受けたいと思っても時間がかかる上、アポイントなどを取り、一対一の対人が必要である。ただし、我々は時によって、知らず知らずのうちにカウンセリングに似たものをやっているのだ。日々の仕事でのストレスで張り詰め圧倒された気持ち、やるせない気分を表現することで吐き出しているのだ。その良い例が、職場の同僚と仕事が終わった後、焼鳥屋や赤ちようちんの酒場へ行き、焼鳥などをかじり酒を飲みながら、仕事の苦言や上役の悪口などを言うことだ。たとえ資格のあるカウンセラーと話しているのでなくても、十分なカウンセリング効果があることを付け加えたい。心の中を話し、上役などの悪口であっても口に出すことによって、気持を和らげているからである。
 一対一のカウンセリングやグループ=カウンセリングは、時間と場を設けなければいけないのに比べ箱庭療法の方は、箱庭セットを買えば、仕事の終わった後家へ帰って、十五分から三十分でも、あるいは休日にやればもっと時間があり、実行できるのであるが、一セット二十五万円と高価である上、家庭内に置くことはできるが、白い砂が入っているので、畳の部屋などではこぼしたりするおそれがある。それ故、学校や箱庭療法を治療として実践している病院などの備品や設備として備えるのが望ましい。
 このように、箱庭療法を家庭などで好きな時にやるというのは、大変コストが掛かる上、置き場に困るという欠点がある。そこで何か手軽にできるもので、正式な箱庭セットに代わるものはないかと、県立高校でのコミュニティー=スクールのカウンセリング入門講座を終了した後、自宅に於いて工夫、創意、開発を試みた。その結果、三つの箱庭療法代替の行動を編み出した。
 一つは箱庭セットの代わりにレゴ=ブロックを使うもの。もう一つは子供が砂場でおもちゃなどを持ち寄り、子供用のシャベルなどで砂を盛り上げたり、小山を作ったりする行動を成人がやる方法、そして最後に、厚紙、とりわけいらなくなったボール紙などをハサミで小さく切り、折り曲げ、そこへ広告などの人や家や木を貼り付け、あるいは、いらない白い紙に色鉛筆やカラー=サインペン、クレヨンで家や木や石、山、自動車、人などどんなものでも描き、ハサミで切り抜き、折り曲げたボール紙のタテの面にノリで貼り付けて、それらを机の上に並べて箱庭の作品、即ち絵模様を作り上げる方法を考案した。
 それらを詳細に説明するのは後に回すとして、先ず箱庭療法がいかに考案創造され、心理的、精神的疾患の治療法として確立されたかの歴史を辿ってみる。
 箱庭療法の起源は、二十一世紀初めのイギリスに於いてであった。一九一一年にSF作家として有名なH・G・ウェルズが、自分と彼の子供とでおもちゃを床に並べて遊んだ経験に基づき、その体験記を本にして出したところ反響があった。そのタイトルは、「フロア=ゲーム」というもので、それを読んだイギリスのクライン派の小児科医、マーガレット=ローエンフェルド女史が感動し、世界技法(THE WORLD TECHNIQUE)を考案し、子供用の遊技による精神療法として確立した。一九二九年のことであった。
 その後、スイスに伝わり、カール=ユング(CARL JUNG)学派のドラ=カルフ(DORA KALFF)によってユング心理学を基盤にし、さらに改良した「砂遊び療法」(SAND THERAPY)が確立され、カール=ユング研究所で科目としてもあり、研究されている。科目では「SAND PICTURE」と呼ばれている。同研究所はスイスのチューリッヒにあり、カール=ユングによって設立され、修了書はいかなる分野でも博士を取った人が、さらに上を学ぶ超博士の学位である。
 箱庭療法は、「SAND PLAY THERAPY」とも呼ばれ、心理療法の一種と見なされ、セラピストが見守る部屋の中で、箱の中に自由におもちゃを入れる療法で、心の中にあるものを表現するものと言われている。
 箱庭療法は、初めは子供用の心理セラピーとして用いられた。その理由は、未だ学習能力の低い子供や思春期の者達が問題のある自分の心の中を表現するには煩雑すぎるので、つまりそれを言葉で構成して表現するには不向きで、苦手であるが、おもちゃなどで遊技的にすることで自己表現を容易にすることが出来る。それで箱庭は遊技療法として意義があるとされた。現在では子供だけでなく、成人にも精神障害の治療、心理療法に広く使われている。
 日本には河合隼雄が一九六一年よりカリフォルニア大学ロサンゼル校(UCLA)大学院に留学中に教わっていた同大教員で、かってヨーロッパから渡って来たユダヤ系ドイツ人カルフに出会い、この時初めて箱庭セットによる箱庭療法を体験した。彼は、かって子供の頃に体験した江戸時代よりある和風「箱庭」に似ていると直感的に思い、その後、カルフの勧めもあってスイスのカール=ユング研究所に留学し、正式に箱庭療法や深層心理について実践体験による研修を積み、一九六五年に日本へ紹介した。河合が勤めていた天理大や、その後の京都大学を中心に広められた。
 その後、二人の有能な臨床心理士、山中康裕や岡田康伸によって広められ、大学や学校の心理相談室や病院で精神疾患の治療として普及するようになった。
 河合隼雄が留学中にすでに感じていたように、日本には箱庭によく似た和風「箱庭」が存在し、西洋の箱庭療法を受け入れやすい下地があった。江戸時代前からの伝統文化があったようだ。
 日本では江戸時代前からお盆に石を載せ、風景を描く盆石、盆山盆景という作品を作る伝統文化があった。その中で木を作る方法で、盆状の植木鉢にミニアチュアーの木を植える作品である。そして、江戸時代の元禄文化の一環で、これらが新しいものとして発展する。
 この時期になって箱庭というものが出現する。小さな、あまり深くない箱の中に、小さな人形や橋、船などの景観を構成したミニアチュアーを作り、庭園や名勝などで、絵画的な光景を模型で楽しむものである。明治時代になっても、さらに箱庭は工夫され、類似したものとして盆景を改良した盆栽が出現した。枯山水は逆に大きくしたものだ。
 これらの和風箱庭や盆栽、盆景などは、どちらかと言うと年寄りじみた趣味とされていたが、前述のように河合隼雄がヨーロッパの箱庭療法と和風箱庭に共通性があると感じて、箱庭療法を日本に紹介してから、和風箱庭も注目された。
 そこで話を転換して、かってコミュニティー=スクールで習得した箱庭をいかに私自身で発展させたか、箱庭を改良したかの本題について述べようと思う。
 前にも言った通り、箱庭はカウンセリングやフロイトの自由連想法など、他の心理療法に比べ、少しの時間と本人以外の人が立ち合わなくても、箱庭セットがあれば家庭でも出来る。(但し、通常、学校のカウンセリング相談室や病院などで治療としてやる場合は、本人が箱庭を作る過程で絵模様を作る小さな人や木、家などの順番を心理分析のために医師や第三者が立ち合い確認する場合が通常だが、一人でやっても心を和らげる効果は充分にある。)
 箱庭セットは新品で二十五万円ぐらいし、また、家庭だと箱庭セットの箱が大きく、置きづらいことと、砂をひっくり返してしまうので、箱庭セットは通常、学校のカウンセリング=ルームや病院の臨床治療に設備として使うのが望ましい。私はこの箱庭セットを家庭でやるための方法として、子供がやるような砂場で、人が中に入っておもちゃを置く方法を考案した。
 その砂場でおもちゃを並べてやる方法は、箱庭セットのもので箱の中に景観を作ることとほぼ同じであることがわかる。大きな違いは、箱庭療法セットは小さな箱の中の砂の上に小さな人、動物、木、家、橋などのミニチュアーのものを箱庭の外側から並べて、絵模様や景観で自分の心の中を表現するが、砂場でやる箱庭は、人と同じ大きさというか、自分自身が砂場という数メートル四方の長方形の大きな箱の中に入り込んで、持ち寄った数々のおもちゃなどを並べて行う、スケールの大きい箱庭療法である。言わば、箱庭の世界に自分も身を置いてやるところに、箱庭セットと心理的に効果が違うように思われる。箱庭セットよりも多くの種類のおもちゃを広い砂場に持ち込め、また砂に起伏を作るにしても、スケールの大きなものを作ることが出来るので、心理的に幅広く表現出来よう。
 それらを考慮して、代替できるであろう箱庭療法に類似したものを考案し実践してみた。
 その一つが、実際に五歳ぐらいまでの子供が砂場でやっている遊びで、それを子供だけでなく成人(もちろん少年や青年で心の悩みを持っている人も、そうでない人も、ただ遊びという人も含め)がやる方法である。
 家の近くの公園や小学校の砂場などで、日曜日など小さな子供が自動車やその他のおもちゃを家から持って来て、そこに並べて遊んでいるのを、誰でも見かけたことはあると思う。子供はおもちゃを並べて、小さなシャベルを使って山を作ったり、砂に起伏を作ったりしている。そして、出来上がると満足そうな笑いを浮かべている。
 かって県立高校のコミュニティー=スクールでは、箱庭セット以外にもどんなおもちゃでも使用できることを習った。駄菓子屋で売っている怪獣の模型、コマ、飛行機、戦車、人形、ヘビ、トカゲのゴムなど、プラモデルの飛行機、観光地のおみやげもの、こけし、おもちゃ屋で売っている人形、自動車などなど。大きさはまちまちであるが、箱庭セットの箱庭に入るものなら何でも良い。これを砂場を作ってやると、もっと色々な物を持ち込める。それこそ、やろうと思ったら、自転車のバイク、自転車、コンビカー、大きな列車のおもちゃ、タイヤ、金槌、サッカーボールや野球のボール、バレーボールの球、ものさし、植木鉢、パイロン、お盆や茶わんなど色々な物を持ち込んだって良い。大きな自転車と人を表すのに人形を使っても良い。大きさが違っても、心の中に思う物を表現するのだから、アンバランスでも良い。
 私自身が試みたのは、ほとんどは子供のおもちゃなどを使って砂場で砂を盛り上げ、人や小さなカーミニチュアー、プラモデルの飛行機、人形などを使用した。他人がいらなくなって捨てたおもちゃなどをもらって来て使用し、箱庭作品を砂場で作ってみた。幼い子供が砂場で家から持ってきたおもちゃなど、例えば自動車やピストル、飛行機、ロボットなどを並べ、山を作ったりする遊びと同じであるが、それより成人がやると、もっと多くの物を使い高度な絵模様を作るところに違いがあり、成人の作品として意義がある。
 しかし、他人から見ると、成人が子供の遊びをしていると思われやすい。学校の砂場に入って私が箱庭をやっているのを幼児を連れてやって来た若い母親が見て、「どうして子供さんの遊びをやっておられるのですか」と声を掛けられてしまった。私は「箱庭療法の替わりを砂場でやっている」旨を若い母親に説明した。
 箱庭療法をストレスを抱える人が家庭で箱庭セットを使ってやるには高価であり、なじまないので、代替箱庭として砂場でやる方法を試みたのだが、欠点は仕事をしている人が自宅に帰って十五分ぐらいでは砂場ではやれないので、週末に時間を充分に取れる時に、砂場で実行するしかないということだ。
 高校のコミュニティー=スクールで箱庭療法を習った時、中立的な第三者がおもちゃなどを一つ一つ置く順番を記し、カメラで出来上った箱庭の作品を撮影し写真に残した。それに習って、砂場の中へ入って箱庭をやる場合も、作った作品を写真に撮り、出来れば置いた順番をもメモして置くのがよいと思われる。仕事などのストレスで精神が滅入ったり、精神科の医師に診察を受けたり、カウンセリングを受けたりする際に、有力な診断の根拠になるからである。
 砂場という大きな箱庭に人が入り、自分自身で箱庭の世界に入っていくので、深層心理として箱庭セットでやるのと違いがあるだろう。
 使うおもちゃは何でも使える。子供のおもちゃ、少女のままごとセット、プラモデル、こけし、グリコのおまけ、駄菓子屋の安価なおもちゃ、何でも良い。それらを買ってもよいが、子供が成長していらなくなったものを貰えると良いと思う。そして、使えるものを家庭の中で捜して使うのも良い。コップやサジなどの食器類などを使うと良い。
 次に私が考案した箱庭セットに代わってやる代替箱庭療法として、市販のおもちゃ、レゴ=ブロックを使ってやる方法がある。これもある時、ゴミを捨てに行った時、さんざん子供が遊んでいらなくなった古いレゴ=ブロックがあったので、それを持ち帰って来た。レゴが置かれているのを見た時に、ふと、箱庭を連想し、レゴで箱庭をやってみようと思ったのである。
 レゴは出っぱったぼちぼちを凹んだところにタテ、ヨコにはめ込み、色々の形を作り出すもので、西洋から日本に販売されている子供用のおもちゃである。主に幼児が保育園や幼稚園へ通っているぐらいの時に、家で両親に買ってもらうか、場合によっては大きいセットだと、保育園に置いてあり、園児がレゴで遊んでいるケースもある。
 レゴの場合、価格により大きなセットから小さなものまでセットが違うので一概には言えないが、小さなサイズだけでは、通常の箱庭セットと比べ、作り出す作品に限りがある。テレビのコマーシャルなどで、大きな広場だとか、駅舎とか庭園を作ったものを見たことがあるが、これはごく価格の高いもので、通常のレゴセットでは作れるものではない。
 私自身は、ロンドン橋の変形したもの、簡易な駅舎、角ばった馬、平なトンボを作ってみた。これを写真に撮り、高校のコミュニティー=スクールでのカウンセラーに見せたり、当時、睡眠障害でかかっていた東京都港区にある慈恵会医科大学病院、精神科の教授に見せたりした。
 慈恵医大病院の精神科の教授は箱庭療法の専門ではなかったが、大変関心を持ち、私がレゴを使ったことを「箱庭セットが二十五万円もするので、安価で買えるレゴ=ブロック=セットを買い、家庭でも好きな時間に十分ぐらいあれば箱庭に替えて出来る」という理由で説明すると、「大変面白いと思う。これは黒田流の箱庭療法だね」という評価を受けた。そして、私の診察カルテに記し、箱庭療法を実際に行なっている医師に紹介すると共に、後日、詳しいレゴをやるに至った説明、つまり代替箱庭としていかにレゴを使おうと思ったかなどをレポート用紙に書き、レゴでやる箱庭についての説明報告書を担当医を通じて箱庭専門の医師に渡してもらった。やはり、その際に高校のコミュニティー=スクールと同様、担当医の教授から、レゴでやる箱庭でブロックを一つ一つはめる時、どれからやったかの順番を書いておくように言われた。慈恵医大病院では実際に箱庭を治療として行っている。もちろん、健康保険が効く。
 後日、私のレポートを根拠に慈恵医大の方で学会発表をしたそうだが、それが一九九七年のことであった。その翌年の九八年にテレビにレゴの会社が、「レゴでやる箱庭」というキャッチ=フレーズでCMを流した。慈恵医大からレゴの会社に伝わったのか、それともレゴの会社の方で偶然、私とは別個に思いついたのかは定かではないが、私の方が先に「レゴでやる箱庭療法」を考察したことは間違いない。
 サラリーマンなど世の中でストレスを感じている人は、レゴの安いものを買うか、子供さんが成長してレゴで遊ばなくなった家庭を知っていれば、それを貰い、十五分でも毎日やってみてはいかがだろう。精神的ストレス軽減のためになるので。
 第三番目に代替箱庭療法として考えたものは、机の上で細長く切ったボール紙を九十度に折り、その紙のタテに折った部分に、人、家、木、動物、山、池などの物で、広告などにあるそれらの写真をハサミで切ったり、いらない紙に色鉛筆、色サインペンやボールペン、クレヨンなどでかいたものをハサミで切ってノリで貼りつけ、箱庭に置く物を多く作り、自宅にある事務机や食卓に並べ、箱庭療法をやる方法である。
 堅い紙として、小学生の図工などで使う目盛りの入った工作用のボール紙を買っても良いが、厚紙、ボール紙は家にも色々な商品の中にある。例えば、和菓子の箱、チョコレートの箱、カレーの箱、レポート用紙や便箋の一番下のボール紙、チョコレートの中の厚紙などを使い、ハサミで幅五〜六センチ、長さ十五〜二十センチの大きさに切って、三分の一を折り曲げ、長くなった方をタテにして机に置く。そこに、前述のように広告を切ったりして作った木、家、動物、魚、駅舎、飛行機など箱庭用の置く物を、前述の折り曲げた厚紙やボール紙の長い方にノリで貼り、それをタテにして三分の一の短い紙片で折り曲げた方を水平にして、机の面につけ立てる。そうすれば、それを使って、机に並べて箱庭を楽しむことが出来る。
 家や木などの写真広告は、新聞の折り込み広告で良いが、読み終った新聞や週刊誌の中の広告も白黒であっても使う。食べ物や野菜などは、スーパーの新聞の折り込み広告で間に合う。旅行会社の国内、国外ツアーの色刷りパンフレットを貰って来て切り抜くと、温泉旅館や観光地の風景など美しいものを使用できる。それらを前述の厚紙に貼りつけると美しい物に仕上がる。とりわけ、国外旅行のパンフレットだと西洋やアジアの家、駅、建物、寺院、風景などエキゾチックなものが出来る。
 広告にない物、例えば、怪獣、SFロボットなどは、いらない白い紙、例えば、広告のウラやお知らせの紙のウラに、色鉛筆やクレヨンで絵を書き、切り抜いて折り曲げた厚紙に貼っても良い。書くのに手間がかかるが、全部手書きのものを使っても良い。
 それらを机に並べてやれば、箱庭療法の代わりになり、充分にその効果はあるが、欠点は箱庭セットのような砂による起伏が出来ないことだ。机以外にも床や畳の上でやっても良いが、日本の臨床心理士の中には、学会で箱庭セットの枠が効果があるとした発表をした人もいる。が、それでも床や畳でやることも良い。心理的に効果があるからだ。もちろん厚紙に広告や絵で書いたものの他に、こけしや小さな人形、おもちゃ、駄菓子屋の怪獣、プラモデルの飛行機など合わせて使っても良い。この方法で箱庭の絵模様の作品を作ったなら、レゴでやる作品同様、写真を撮り、物を置いた順番を記しておき、カウンセリングや精神科の医師の所へ行く時の自己心理分析の資料やデータとして役立てると良い。
 その他にもおはじきを紙と一緒に並べて花を作ったり、また、おはじきのみの遊びをしたり、少女がやる「ままごとセット」や「リカちゃん人形のセット」を買ったり、それらでいらなくなったのを貰ったりしてやるのも、別の箱庭代替療法となろう。
 現代社会でストレスに悩む人は、私が考案した三つの代替箱庭やおはじき遊びなどを家庭で毎日できなくても、時々、短い時間でも行い、ストレスを取り除くべきだ。そして、三つの代替箱庭によって異った深層心理の発見もあり得る。その他工夫として、粘土で動物、虫、ロボット、木などを作り、その他のおもちゃやボール紙に貼った物と混ぜて使っても良いだろう。さらに折り紙を加えても良い。誰でも知っている鶴やカブトだけでなく、折り紙の折り方を示した本は多くあり、複雑でやや折るのに難しいが、色々なものが折り紙としてある。粘土や折り紙は、個々の動物や花などを作るだけでも、作業として心理的にストレスを和らげる効果があるが、さらに箱庭の構築物として使えば、二次的効果があろう。

(了)

参考文献及び参考資料
神奈川県立川和高校コミュニティー=スクール「カウンセリング入門」プリント資料  CARL JUNG INSTITUTE
CATALOG一九九五年版 ZURICH SWITZERLAND
WEB SITE WIKIPEDIA 「箱庭」「箱庭療法」「CARL JUNG」「河合隼雄」

(流星群第29号掲載)

日本のプロ野球で活躍したアメリカ黒人選手達 の出身校、アメリカ黒人州立大学の歴史

 一九八四年に当時の球団、阪急ブレーブスのアメリカ黒人の強打者、ブーマー=ウェルズが日本プロ野球史上初めて、外国選手による三冠王を達成した。打率三割五分五厘、打点百三十、ホームラン三十七本の成績だった。
そのすぐ翌年に、阪神タイガースの「史上最強の助っ人」、アメリカ白人のランディー=バース内野手が三冠王を取り、それに続いた。
 ブーマー選手が外国籍の日本プロ野球史上初めての三冠王を取得したのは画期的な業績だが、その他に、もう一つの意味で歴史的な偉業なのだ。日本の野球評論家や野球ジャーナリストなどには知識がないので知られていないが、ブーマー選手はアメリカの黒人大学の出身であることだ。つまり、外国人としての初めての三冠王は、アメリカの黒人大学の出身者であるというのは特筆すべきことで、アメリカ黒人にとっては大変な偉業なのだ。
 ブーマー選手は、アメリカや後に日本のプロ野球界に入る前に、ジョージア州にあるオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)という差別のあった南部諸州で、憲法修正十四条、十五条で奴隷から解放された黒人に対して、農業、工業、技術者を養成する目的で黒人のために作られた大学の一つを出たのである。(南北戦争後、黒人は解放されて自由を得たが、南部諸州は州法で、白人と黒人を分離する政策で、黒人は白人の大学に入れなかった)
 ブーマー選手の他にも、日本のプロ野球に於て活躍した大物選手、ルー=ジャクソン選手(元サンケイ=アトムズ)、ジョージ=アルトマン(東京オリオンズ、阪神タイガース)が、それぞれルイジアナ州のグランブリング州立大学、テネシーA&I大学という、やはり黒人大学出身者で、その他にも数人のそれほど活躍しなかったが、黒人大学出身の選手が、日本プロ野球に在籍した。そのことについて、日本の評論家など野球の専門家達は、野球の専門知識しかなく、アメリカ黒人史や教育史についてまったく知らないので、殆ど日本では知られていない。
 そこで、以下に於いて、日本のプロ野球界に登場したアメリカ黒人選手で黒人大学の出身者とそれら黒人大学の歴史についての列伝として記してみたい。  まず、日本のプロ野球で活躍した黒人大学出身のアメリカ黒人の選手について語る前に、黒人大学や黒人教育について述べなくてはならない。  黒人大学とは、文字通りアメリカ南部諸州に於いて、主として黒人のために黒人が通う大学だが、その大学がアメリカ南部諸州に作られた経緯は、アメリカ南部に於ける黒人奴隷制度と南北戦争後に解放された後の、黒人隔離による差別制度が主たる要因だ。
 そもそも、アメリカ大陸では、スペインが統治して以来、農業プランテーションや鉱山での安い労働力として、アフリカから多くの黒人達が奴隷という商品として連れてこられ、過酷な労働を強いられた。
 アメリカ南部では、一九八七年に独立後多少の黒人奴隷は存在したが、一八〇〇年代に入って、コットン=ジンという綿花から種をた易く取り除く機械が発明されると、アメリカ南部諸州では綿花栽培が本格的プランテーションとなり、大量の黒人奴隷が投入された。そして主として工業国で奴隷のない北部の州と南部諸州は、自由州と奴隷州として対立し、結果として南北戦争が起こる。
 奴隷には人格が否定され、十分に給与も技術も教育も与えられず、文盲だった。そこで、北部の奴隷反対の運動が起き、南部の奴隷州から北部の自由州へ黒人奴隷を逃がす運動が一部の教会を中心とした奴隷解放主義者によって行なわれた。そして、人道的見地から解放された奴隷が自立するため、読み書きや職業的技術を身につけさせる教育が施された。  南部戦争前に、読み書きを解放奴隷に教えたのが、アフリカン=フリースクールで、また、高等教育として、オハイオ州のウィルバーフォース大学や黒人教育に力を入れて、黒人にも門戸を開いたのが教会系のオバリン=カレッジで、黒人の教育者を養成するためだ。  その間に一八六一年に南北戦争が起こり、戦時中、リンカーン大統領が一八六三年に奴隷解放され、同時に連邦憲法修正十四、十五条により、自由と人権を得たが、南北戦争後北部が勝ち、南部諸州は合衆国に再編成された。しかし、南部諸州では奴隷から解放された黒人は、手に職になる技術もなく、教育もなく、読み書きが出来ず、ただ町を徘徊するだけであり、白人と一緒に生活も出来ず、また社会で一緒にやっていけなかった。そこで、南部諸州では州法を定め、白人と黒人を隔離する政策、差別が行なわれた。「隔離するが平等」(SEPARATE BUT EQUAL)政策である。
 このような中で、黒人は黒人の社会で初等教育から高等教育までを施さなければならなかった。連邦政府には、解放された黒人を支援する局が設立され、財政が計上され、粗末ではあるが、初等教育の学校も作られるようになった。また、教会や博愛主義的財団も黒人の教育に出資し、学校を作ったりした。高等教育にも、黒人の農業や職業的技能者を養成する指導者と、学校教育の教師をする目的で、教会や民間の篤志家や博愛団体の寄付及び奉仕により、南部諸州に百校以上の黒人大学が、一八七〇年代、一八八〇年代に作られた。
 教会や私立の黒人大学と州立の黒人大学があるが、現在もある州立大学は、設立の年が一八七〇年以後が多いが、初めは教会系や私立系だったものを、後に国の法で土地を与え、建物を作り、買収したり、いくつかのこれらの学校を統合して、現在の位置に移転させて、黒人の州立大学にしたものが多い。現在でも伝統的にそれら黒人大学は、白人も入学して来る場合があるが、殆どの黒人大学は九〇パーセント以上の学生は黒人である。大学の事務職も殆ど黒人だが、教員はかなりの白人が教えている。
 日本のプロ野球で活躍した黒人選手の出身校の黒人大学は、私立や教会系の黒人大学よりも奨学金を貰えた理由から、総て州立大学なので、アメリカの州立大学について述べてみることにする。
 一番最初のアメリカの州立大学は、一七八五年と一七八七年の土地条令による設立であった当時の北西部、今のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州などの独立当時に、まだ州になっていなかった土地を農業振興と人を移住するため、科学的測量を行ない、六マイル四方、六百四千エーカーの土地を人々に与えるものであった。そして国、連邦政府の財政で、一エーカー当りの土地代を入植者に与える(LAND GRANT)ものだった。大学も連邦政府の土地を与えて作られることになった。この法令には州になった所と同じ、議会や裁判所などの行政機構も規定されていた。
 さらに学校についても、連邦政府の土地と財政を与える(LAND GRANT)校があり、大学についてはHATCH法により、いくつかのLAND GRANT大学が出来た。それが、一七〇〇年代来のテネシー大、ノースカロライナ大や一八二〇年代のオハイオ大学やインディアナ大学である。  その後、南北戦争中に、ヴァーモント州選出の議員、ジャスティンS・モリルが提出したMORILL LAND GRANT法で、一七八五年や一七八七年のORDINANCEに習い、主に南部の州への移民と農業を振興するために、連邦政府が州へ財政と広大な連邦政府の土地を与え、農業工業振興のため技術者を養成するために作ったいくつかの州立大学がある。同時にHOMESTEAD法(定住法)で、農業移住者に六百四十エーカー四方の土地へ財政援助を与えた。
 この時出来た大学が、バーモント大学、カンザス州立大、アイオワ州立大学、ミシガン州立大学など、それ以後の州立大学のほとんどである。イリノイ大やテキサスA&M大も含まれる。
 そして、一八九〇年になって、「第二モリル=ランド=グラント法」と呼ばれる「AGRICULTURA COLLEGE ACT」という法により、それまで一八七〇年代から八〇年代に黒人のために作られた一部の教会系や私立の小さな大学を統合し、南部の諸州に国、連邦政府が、財政と土地を各州に提供し、黒人の州立大学として新たに設立した黒人の州立大学がいくつかある。フロリダA&M大学、アラバマ州立大学、アルコーン州立大学、ミシシッピーバレー州立大学、ルイジアナ州のサザン大学、テキサスのプレーリー=ヴューA&M大学などである。
 この間に一九〇〇年代初頭、黒人指導者、W・B・デュボア(DUBOIS、デュボイスとも呼ばれる)とアラバマのタスケギー師範職業学校の黒人校長、ブッカー・T・ワシントンとの有名な論争があり、デュボアは、黒人が差別されている状況から解放され、地位を引き上げ、差別から戦わなければならない事を説いた。そのためには教育は職業的な教育ではなく、黒人が入学を許されていない、白人の大学への高等教育が必要であるとした。一九二〇年以後、有色人種地位向上協会(NAACP)を作り、黒人が入学を認めなかった大学の法学大学院(主として南部の州立大学)を裁判に訴え戦って、州裁判所から州最高裁判所、そして連邦最高裁判所へ憲法判断を求めた。一方、ワシントンは、白人に差別されている黒人が戦いを挑んで体制を荒だたせるのではなく、忍従し、黒人の社会で手に職をつけ、生きる道をさぐるべきとして、黒人教育は職業的なものをすべきことと提唱した。
 そして、一九一四年にリーバー=スミス法により、農業拡張施設を州立大学に付属させる法律が出来、農業職業教育の充実をはかり、一九一七年のスミス=ヒューズ法により、職業教育について大学の充実がはかられた。これは、職業教育について、各州の職業教育委員会が科目や教員の質、設備などの計画を国、連邦政府の職業教育委員会に提出し、連邦政府が州との割合を決めて、それらの州立大学に財政援助するというものだ。大恐慌の時には、バンクヘッド=ジョーンズ法により農業政策のニューディールに合わせ、農業教育振興のため州立大学に援助された。  一九三〇年代に二年制の職業的郡立州立短大、ジュニア=カレッジ、後にコミュニティーカレッジが出来た。それ以後州立大学はいくつかの法律により、年代毎に作られ現在に至る。  その他州立大学と別個にアメリカには普通教育の学校での教師を養成する州立師範学校(STATE NORMAL SCHOOL)が設立され、主なものは、一八三〇年代から年々作られた。マサチューセッツ州のフラニガン=ノーマル=スクール、ミシガン州立ノーマル=スクール、現イースタン=ミシガン大学(一八四九年)、ハリス=スタウト=ノーマル=スクール、現ウイノア州立大学(一八五三年、ミネソタ州)、イリノイ=ステート=ノーマル=スクール、現イリノイ州立大学(一八五九年)、サム=ヒューストン=ノーマル=スクール、現サム=ヒューストン=州立大学(一八七九年、テキサス州)などがある。
 その後、ノーマル=スクールは一九一〇年頃から一九六〇年ぐらいまでTEACHER COLLEGEと呼ぶようになり、一九六〇年代はUNIVERSITYになった。それらの大学の名前にはサウスとかノースとか、UNIVERSITYの前に方角がついている。地域的な教育需要に合わせて設立されたからである。
 このような州立大学の傾向を念頭に置いて、日本のプロ野球で在籍、活躍した黒人選手の野球実績と、それぞれの出身の黒人大学について紹介する。  日本のプロ野球選手で最初に活躍したアメリカ黒人選手で黒人大学出身者は、一九六六年にサンケイ=アトムズ(現ヤクルト=スワローズ)に入団した、ルー=ジャクソン選手だ。ルー=ジャクソン選手は一九五八年より一九六五年まではアメリカの球団を渡り歩き、シカゴ=カブス、モントリオール=エクスポス、その間、マイナーリーグの球団をいつも渡り歩き、再びメジャー球団のシカゴ=カブスに入り、一九六五年にはボルチモア=オリオールズに在籍した。メジャーリーグの実績は、打率二割一分三厘、本塁打〇、打点七のわずかなものだった。一九六六年にサンケイ=アトムズに入団してからは主力打者として活躍し、同じく黒人のデーブ=ロバーツやホブ=チャンス選手と共にホームランバッターとして頭角を現わした。右打者でバットを強い手首で揺らす打法は、黒人の力強さを感じさせた。初めの年に本塁打二十本、打率二割五分五厘、六七年には本塁打二十八本も打つ大活躍をしたが、六八年六月に膵臓が壊死するという難病で死す。外国人選手、初の客死だった。まだ三十四才の若さでの死だった。
 このジャクソン選手が卒業した大学が、ルイジアナ州北西部の黒人の入植地に、黒人のために作られた大学、グランブリング州立大学(GRAMBLING STATE UNIVERSITY)であった。
 グランブリング州立大の起源は、一八九六年に北部ルイジアナ、有色人種農業救済協会によって、今のグランブリング大学町の西側に小さな学校を建てたことだ。学校を建設するに当り、アラバマ州にあった私立で黒人の農業工業師範学校、タスケギー=インスティチュート(TUSKEGEE INSTITUTE)のリーダー、ブッカー・T・ワシントンの教育技術援助を受け、彼の指導を受けたチャールズ=アダムスが学長となり、カラード=アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールとなった。(黒人のための農工学校となり、一九〇五年、名前をノース・ルイジアナ・アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールと変えた。)
 さらに一九二八年には州立JUNIOR COLLEGE(短大)となり、二年終えると修了証書を出すようになる。そして学校の名前が、ルイジアナ=ニグロ=ノーマル&インダストリアル=インスティチュートとなり、農業教育を重点に置くことになった。この学校の特色は大恐慌の後の連邦政府の方針(ニューディール政策)によりもっと強まる。一九三六年に農業教育協会の援助により、三年制の大学となり、一九四八年に学士号を出すようになった。一九四六年には初等教育学部を加え、名前がグランブリング=カレッジとなった。新しい大学の土地と多額の寄付をしてくれた製粉会社の社長P・G・グランブリング(白人)にちなんだものだ。その後、多くの建物も作られ、三百八十四エーカーに大学の敷地が広がった。その後、中等教育部や科学部、文学部や社会学部も加わり、一九四九年には南部大学及び学校協会の認可を受け、一九七七年には大学院も加え、今日のGRAMBLING STATE UNIVERSITYとなって現在に至っている。
 次に日本で活躍した黒人大学出身の黒人選手は、ジョージ=アルトマン(GEORGE ALTMAN)である。通称「足長おじさん」の愛称で呼ばれた選手で、一九六八年から一九七五年まで東京オリオンズ(現千葉ロッテ)でプレーし、一九七六年の一年だけ阪神タイガースでプレーした主力打者であった。
 ジョージ=アルトマン選手はノース=カロライナ州グリーンズボロに生まれ、一九五九年にメジャーリーグ入りし、カージナルス、ニューヨーク=メッツ、シカゴ=カブスでプレーした。一九六四年にはオリオールズで五番を打つほどの強打者であった。一九六七年までメジャーリーグで活躍し、通算成績は本塁打百一本、打点四百三、打率二割六分九厘であった。
 日本へは、一九六八年に東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団し、その年に打率二割二分と本塁打三十四本をマークした。オリオンズには一九七四年まで在籍し、常に二十本以上の本塁打を打てる強打者で、一九〇センチを越える長身で、「足長おじさん」とファンに親しまれた。メジャーリーグ時代は「ビッグ=ジョージ」と呼ばれた。外国人選手としては初めて通算二百本以上の本塁打を打った。また六試合連続本塁打をも記録した。一九七四年に大腸ガンで倒れ、病院に運ばれて、東京オリオンズは健康を害したことを理由として解雇したが、その後阪神タイガースで一年プレーした。日本球界での通算成績は本塁打二百五本、打率三割九厘、打点六百五十六の好成績であった。
 このアルトマン選手が出た大学が黒人大学のテネシー州立大(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)で、アルトマンが出た時の大学名はテネシーA&Iカレッジである。同大学は一九一二年に、総括的で、都市大学型の共学のランドグラント州立大学として、ナッシュビルに設立された。州議会が三つのノーマル=スクール(師範学校)、その中の一校が農工学校(AGRICURTURA&INDUSTRIAL SCHOOL)を含み、百四十四人の学生でスタートした。ウィリアム=ジャスパーが校長となり、一九二二年になって学士を出す、州立農工師範大学(AGRICULTURAL INDUSTRIAL NORMAL COLLEGE)となり、五年後に「NORMAL」の称号がなくなった。一九三〇年代に、大学の設備などが充実し、一九四三年にそれまで三十年奉職したペール学長が引退し、ワォルター=デービス氏が学長を継ぎ、一九六八年まで在職し、大学の設備の充実と発展を遂げる。同氏は有能な卒業生であった。まず、一九四四年に州議会は同大学の教育レベルの向上をはかるため、教育学分野を充実させた。大学院を作り、修士号を出すことを認めた。一九四六年にSACS(南部大学及び学校協会)が大学の水準を許可することになり、州立黒人大学の地位を確立する。学部は工学部、教育学部、文学部と理学部、農学部、家政学部になり、大学の組織再編成が行なわれた。これは州の教育委員会が再編成を許可したためで、さらに、一八五八年に、連邦法により財政と土地を与えられ、ランドグラント大学になり、いくつかの分校と生涯学習、そして宇宙工学部が加わった。そして一九六六年にそれまでのテネシーA&I大学のA&I(AGRICULTURAL INDUSTRIAL)の名称がテネシー州立大学(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)となり、その後一九七六年にフレデリック=ハンフリー氏、一九八七年にオーチス=フロイド氏、一九九五年にヘルビン=ジョンソン氏と学長交代をし、現在九千人以上の学生を持つ黒人州立大学となっている。
 次に話すべき黒人大学出身のアメリカ黒人選手で、日本のプロ野球で活躍した選手は、何と言っても外国人選手として初めて三冠王を獲得したブーマー=ウェルズこと本名、グレゴリー=ドウェイン=ウェルズである。
 ブーマーは一九五四年にアラバマ州で生まれ、ジョージア州の黒人州立大学オルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)で、フットボールの選手として活躍し、NFLのフットボールのプロ選手をめざしたが、採用テストで不合格になり、一九八一年に野球選手をめざし、トロント=ブルージェーズ、一九八二年にミネソタ=ソインズに在籍するも、ファームチーム生活が多く、芽が出なかった。アメリカでの二年間の成績は、打率二割二分八厘、本塁打〇、打点八であった。一九八三年に阪急ブレーブス(現オリックス=ブルーウェーブ)に入り、二年目に打率三割五分五厘、打点百三十、本塁打三十七本で、日本のプロ野球史上初の外国人選手、三冠王となる快挙を達成する。それも黒人選手で黒人の州立大学出身が成し遂げた偉業であった。翌年には製薬会社の貼り薬「パスタイム」のCMにも登場する。一九八七年には六月のダイエー戦で飛距離一六二メートルの大アーチの本塁打を記録する。前の年の一九八六年には一回打点王となっている。一九九二年にダイエーに移籍し、後半は成績が上がらず退団となった。  その後、引退後は日本のプロ野球団のために、アメリカのめぼしい選手をスカウトし、日本球界に数人送り込んだ。日本での通算成績は、打率三割一分七厘、本塁打二七七本、打点九〇一であった。
 このブーマー選手が出た黒人大学がジョージア州のオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)である。黒人大学としての歴史は次の通りである。  サウスカロライチ州ウィンスロップの奴隷出身の黒人、ジョセス=ウィンスロップ=ホーリー(JOSEPH・W・HOLLEY)が、オルバニー=バイブルアンドマニュアル=トレイニング=インスティチュート(オルバニー神学校と手工芸学校)を一九〇三年に設立した。場所はジョージア州南西部であった。ホーリーはその後、サムエル=ルーミス牧師夫妻の知遇を得、マサチューセッツ州のリヴィーア=レイ=カレッジで学んで牧師を目指す。その時、マサチューセッツの事業家ローランド=バザード氏と知り合い、同州内のフィリップス=アカデミーとペンシルバニア州のリンカーン大学で学ぶため、同氏に学費を出してもらい、牧師となるべく教育を続けた。そして、バザード氏の好意により資金を出してもらい、五十エーカーの土地を買い、また、大学経営理事会を設立し、オルバニー学校を州立大学へ橋渡す方向へ持って行った。新しい土地での学校は、地域の黒人に初等教育と教師を養成する学校ともなった。一九一七年に州の財政の援助を受け、二年制の農業、教育師範短大(AGRICULTURAL&TRAINING COLLEGE)となり、数年後にジョージア=ノーマル&アグリカルチュラル=カレッジ(GEORGIA NORMAL&AGRICULTURAL COLLEGE)となった。
 大恐慌の最中、オルバニー州立大学は二年制のまま、四年制のジョージア大学やジョージア州立大学など他の四年制大学に加わる形でジョージア州立大学機構(UNIVERSITY SYSTEM OF GEORGIA)の下の一校となり、一九四三年に四年制の大学になり、オルバニー州立大学(ALBANY STATE COLLEGE)となった。そして、一九八二年に初めて大学院が出来、一九九六年に大学の名前がCOLLEGEがUNIVERSITYと替った。  現在、オルバニー州立大学は、特筆されるのは工学部で、オルバニー州立大学と全米でトップレベルのジョージア工科大学(州立、GEORGIA INSTITUTE OF TECHNOLOGY)と両方で学士号を出すプログラム=コースがあり、全米でも評価されている。また、標準テストの成績が極端に劣る州内の高校生を対象にした夏期講習で百パーセントの確率でそれらの高校生の成績を上げ、これも全米で評価された。現在の学生数は四千人を越した。学長もホーリー以来、現在の学長アンドリー=ウィリアムズまで七代目となる。
 科目も、英語、中等教育、特殊教育、カウンセリング、物理、体育教育学の他に経営学、犯罪警察学、看護学が加わり、六つの修士号を出している。
 オルバニー州立大学が全米歴史上特筆されるのは、一九六〇年代の黒人が人種差別に抗議する運動、公民権運動の中心の一つとなった事である。オルバニー州立大学の学生達と多くの黒人地位向上委員会(NAACP)と学生非暴力調整委員会(SNCC)の代表者が共同して、オルバニー運動(ALBANY MOVEMENT)を立ち上げ、キング牧師やその他の黒人運動リーダーに支援し、招いて運動をオルバニー地域で行った。この時、全米で黒人市民三千人が逮捕され、オルバニー市の地区では七百人が逮捕され、その内、オルバニー州立大学の学生は四十人が逮捕され、退学処分になった。しかし、二〇一一年に大学は、退学になった三十二人に対し、名誉復権の意味で名誉学士号を三十一人に、一人に名誉博士号を送った。
 その他にも、ダニー=グッドウィン(DANNY GOODWIN)という高校時代超飛距離を出した超大物と超大砲と呼ばれた黒人選手が日本のプロ野球にいた。一九五三年にミズーリ州セントルイスに生まれ、高校時代の野球で球場の場外はるか遠くに、超飛距離のあるホームランを連発し、高校時代の打率が四割八分八厘であった。一九七一年に高卒でシカゴ=カブスの一番ドラフト、即ちドラフト=キングを受けたが、プロ入りせず、ルイジアナ州の黒人州立大学サザン大学(SOUTHERN UNIVERSITY)の奨学金を受け、学業をつづけながら野球をし、動物学を専攻した。
 その後、一九七五年に大卒で再びドラフト=キング、つまり一位指名となり、カリフォルニア=エンジェルスに入団した。2Aのエルパソでは実に打率六割三分七厘を打ち、カリフォルニア=エンジェルスに昇格するが、肩を大ケガし、その後、数シーズンを棒に振った。それ以後、チャンスに力を出せず、ミネソタ=ツインズ、オークランド=アスレチックスと渡り歩いたが大成しなかった。メジャー=リーグの成績は、わずか打率二割三分六厘、本塁打十三本、打点八十一であった。
 そして、一九八六年に南海ホークス(現ソフトバンク)に在籍するも打てず、殆どベンチで過ごした。ただ、グッドウィンは頭脳も優秀で黒人大学サザン大学で、野球の合間に修士号を取り、当時、日本でも大学院を出たプロ野球の選手として話題になった。  日本での成績もごくわずかで、一年で打率二割三分一厘、本塁打八本、打点二十六であったが、帰国後、大学野球殿堂入りし(COLLEGE HALL OF FAME)、また黒人大学グランブリング州立大学の野球コーチも務めた。
 グッドウィンの出身校サザン大学は、一八七九年にルイジアナの憲法議会で有色人種のための教育機関の案が出され、一八八〇年にルイジアナ議会が法案を通し、サザン大学として認可をし、ニュー=オリンズのユダヤ教会、イスラエル=シナイの跡地に作られた。その後一八九〇年に黒人大学を許可する二次モリル法により、サザン農工大学(SOUTHERN AGRICULTURAL&MECHANICAL UNIVERSITY)となり、スコッツビルに移る。そして、一九二一年にルイジアナ州議会がサザン大学の再編成と拡張を認め、次の年のルイジアナ州法一〇〇により州教育委員会(STATE BOARD OF EDUCATION)の監督で再編成し、現在のバトン=ルージュに移った。  初代学長は、地元バトン=ルージュの黒人社会の名士で、バトン=ルージュ=カレッジとルイジアナ有色人種教育協会の学長で会長のジェセフ・S・クラークが就任し、一九三八年に退くまで、大学組織の再編成と多くの建物が出来、息子フェルトン・G・クラークが学長になって、学生数が五百人から一万人まで増えた。一九四七年にはルイジアナ州立大の法学大学院(LAW SCHOOL)が黒人の入学を拒否したので、サザン大学に法学大学(LAW CENTER)を作り法学教育を始める。さらに一九五六年には、ニューオリンズにサザン大学の分校(SUNO)、一九六四年にサザン大学のシュリブ=ポート及びボッシアシティー分校(SUSA)と大学博物館が出来、これらが一九七四年にルイジアナ州議会により、バトン=ルージュのサザン大学本校と合わせて統合され、サザン大学機構(SOUTHERN UNIVERSITY SYSTEM)となり、州の財政配分もしっかりとしたものになった。
 その他の黒人大学出身で日本球界でプレーした選手にフレッド=バレンタイン(FRED VALENTINE)外野手がいる。一九三六年ミシシッピー州クラークデールの生まれで、一九五九年ボルチモア=オリオールズに入り、一九六八年まで在籍するも、打率二割四分七厘、本塁打三十六本、打点百六十八に終わり、一九七〇年に阪神タイガースに入る。一年で打率二割四分六厘、本塁打十一本、打点四十六で、その後退団する。彼の出身大学はアルトマンと同じテネシー農工大学で、阪神は二人の黒人大学同窓生が在籍したことになる。
 最後に、一九八〇年代に広島カープに在籍したアート=ガードナー(ART GARDONER)外野手について語る。
 一九五二年にミシシッピー州マッドンに生まれる。同州の州立黒人大学、ジャクソン州立大学を出た後、一九七一年にヒューストン=アストロスにドラフト入団したが、メジャーデビューは一九七五年アストロスで果たす。十三試合に出た。しかし翌年は3Aのメンフィスチックスで、一九七七年にはアストロズに六十六試合出場する。一九七八年にサンフランシスコ=ジャイアンツに移籍するが、翌年から一九八〇年までフェニックスなどマイナー=リーグで過ごす。メジャー=リーグの通算成績は、打率一割六分二厘、本塁打〇、打点五であった。そして、日本の広島カープに一九八〇年から二年間在籍する。一年目は打率二割八分一厘、本塁打二十六本、打点七十七でまずまずの好成績であったが、二年目は打率二割五分四厘、本塁打四本、打点二十八の不振に終った。その後引退し、母校のジャクソン州立大、2Aのオクラハマ、タルサそしてテキサス=レンジャースでコーチをした。
 ガードナーが出た黒人大学がミシシッピー州のジャクソン州立大学(JACKSON STATE UNIVERSITY)は、設立は一八七七年にエドワード=ペイジ牧師により教会系の小さな大学として設立された。一八八二年にJAPキャンベル不動産会社による五十二エーカーの土地が与えられ、ジャクソン市の北部に移り、ジャクソン=カレッジと名前が変わった。その後ナッチェス=セミナリーという教会母体が変わり、現在の位置に大学が移転した。一九二四年になって、教職のための学士号を出すようになった。その後一九三八年に教会の経営母体を退き、代って私立経営母体となり、学校は州立となり、名前をミシシッピー=ニグロ トレーニング=スクールとなり、農業と初等教育に学士号を出すようになった。ついで一九四二年に全面的に四年制の学士を出すようになった。一部大学院の科目も加わった。一九四四年にJACKSON STATE COLLEGE FOR NEGRO TEACHERとなった。一九五三年に本格的な大学院が出来て、JACKSON STATE COLLEGEになる。  一九六〇年代は文学部、教育学部、経済ビジネス学部、大学院が組織上形成された。一九七九年は経営理事会により、大都会の高等教育機関として、教育計画がなされ、より多くの財政投入により、社会福祉学部、独立した工学部、総合保健学部、図書館の拡張が行なわれた。二〇〇〇年にはカーネギー財団により二十六の博士号のコースが充実し、二〇〇六年には債権を得て多くの建物設備が建設された。

参考文献及び資料
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 日本プロ野球外国人選手1936︱1994、ベースボール=マガジン夏季号 一九九四
 ウェブ=サイト  WIKIPEDIA、THE FREE ENCYCLOPEDIA  ORDINANCE OF 1784、ORDINANCE OF 1787、HATCH ACT MORILL LAND GRANT ACT LAND GRANT UNIVERSITIES、SECOND MDRILL ACT、SMITH︱LEVER ACT︱1914、SMITH︱HUGHES ACT︱1917、BANKHEAD JONES ACT︱1936、LOU JACKSON、 GEORGE ALTMAN
 ブーマー=ウェルズ(日本語版)、DANNY GOODWIN、FRED VALENTINE、ART GARDNER  GRAMBLING STATE UNIVERSITY、TENNESSEE、STATE UNIVERSITY、ALBANY STATE UNIVERSITY、SOUTHERN UNIVERSITY
 ART GARDNER BASEBALL STATS BASEBALL ALMANIAC
 BRUCE MARKUSEN�LEGEND OF DANNY GOODWIN� HARDBALL TIMES、2009、JUNE5TH  

(流星群第28号掲載)
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