このところの私は自然界讃歌を謳い、その様子を文章で綴り続けている。しかしながらこの思いは、必ずしも手放しで称賛しているものではない。いやこの思いには、常に大きな恐怖と陰鬱が付き纏っている。正直なところわが自然界讃歌は、人間界の冷酷と浅ましさとの比較において二者択一のうえで、自然界に軍配を上げているにすぎない。なぜなら、自然界讃歌とてそれには、一切抗えない固有の恐怖が付き纏っている。そしてその恐怖は、こんにちまでのわが人生行路においては、まるで間欠泉の如くいや間髪を容れずに体験させられ、そのたびに震えあがり、度肝を抜かれてきたのである。
さて、令和4年・2022年3月11日(金曜日)、すなわちきょうだけは、私は自然界讃歌を心して慎まなければ、人類から恨みを買って、つま弾きを食らうであろう。もちろん、数々の罰にも当たりそうである。人の命が絶たれると、年月の回りを経て、御霊を偲ぶ「回忌」が訪れる。きのう(三月十日・木曜日)のテレビニュースには、「東京大空襲」(昭和20年・1945年3月10日)の周年行事の模様や、当時の数々の映像が惨事を蘇らせていた。続いてきょうは、「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日)の周年行事模様のテレビ映像に明け暮れる。もちろんこちらは、風化どころか今なお現在進行形の悲しみの渦中にある。戦禍とは違って震災は、時計の針が止まった時刻を「午後2時46分」と、正確に刻んでいる。凡庸なわが脳髄に刻まれている発生時刻と忘れようない数々の記憶は、まさしく震災の惨たらしさの証しである。人間の命の絶え時の回りに合わせて、きょうを「東日本大震災」の祥月命日と呼ぶことには、いまなお現在進行形であるかぎり、不遜なところがある。それゆえにきょうだけは、自然界讃歌を慎むことを肝に銘じている。
春はあけぼの、朝日がのどかにふりそそぐ夜明けが訪れている。それでも、自然界讃歌を慎まざるを得ないのは、ほとほと悲しく、とことんわが身に堪えている。きょうの私はいつもとは違って、太身がいっとき細るような、つらい書き殴りに出遭っている。