ひぐらしの記 「生きとし生きるもの」の天敵 人間はもとより、生きとし生けるものにとって、いのちを長らえることは、まさしく寸刻も気を緩められないサバイバル(生き残り)の闘いである。このたびは地震だけれどほかの天災や、さまざまな災害に見舞われるたびに私は、こんな思いにとりつかれている。た... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 再び「震度六強」の地震、宮城県、福島県 春はあけぼの……。そしてきょうは、チョコレートに愛や恋心を託す「バレンタインデー」(二月十四日・日曜日)。多くは片思いや義理チョコの切ない告白である。 こんな軽薄のことは書いておれない。なぜなら、わがお里の知れるところである。パソコンを起... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 人生行路、試練 二月十三日(土曜日)、過ぎ行く二月のほぼ半ばにある。この二月は、大学をはじめとしてさまざまなレベルの入試と、それに関わる合否の知らせのシーズン真っただ中にある。まさしく、人生行路の始発や門出として、若人が体験する厳しい試練である。確かに、当... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 悦楽の「晩御飯」 きのうの「結婚記念日」(二月十一日・木曜日)にあっては、早春の暖かい陽射しが地上に注いでいた。最寄りの「半増坊下バス停」へ巡りくるバスを待って、わが夫婦はしばらく佇んでいた。腰を傷めている妻は、痛さを堪えていたのであろうか、始終下向き加減に... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 結婚記念日 令和三年(二〇二一年)二月十一日(木曜日)、日本の国は「建国記念日」(休祭日)である。例年であれば祝典や、今なお設定の意義に反対を唱える人たちの集会の模様が伝えられてくるところである。ところが今年は、それらの模様はメディアや国全体から鳴りを... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 わが家の日暮らし 二月十日(水曜日)、きのうに続いて春が足踏みする、体感温度の低い夜明け前に身を置いている。しかし、寒いからと言って、もはや寒中の嘆きはない。案外、人間心理をおもんぱかっての、春の好意の悪ふざけなのかもしれない。なぜなら、本格的な春への足音は... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 やむなく「無題」 目覚めて起き出して来て、すぐに文章を書くことには、わが能力はまったく足りない。そのため、一日の始動にあっては、日々嘆くばかりである。人の能力格差、すなわちわが能力の乏しさは、おのずから生涯にわたりつきまくっている。だからと言って、今さら嘆い... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 手つかずの良さ これまで、私は常夏(とこなつ)と言われる「ハワイ」へ行ったことはない。この先、行かずにわが人生は閉じることとなる。冬の寒さを嫌って夏好きの私には、一度くらいは行ってみたいと、ずっと憧れて夢見てきたハワイである。実際にも私は、常々どんなにか素... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 父、母、慕情 茶の間のソファで暖かい陽射しを背に受けて、「日向ぼっこ」に明け暮れていると、生前の父と母の面影が眼前にありありとよみがえる。このことでは私にとって早春のこの時期は、なにものにもかえがたい「至福の時」である。 過ぎた「節分」(二日)そして「... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 目覚めは、「しどろもどろ」 ばかじゃなかろか! 目覚めると私は、思いつくままに「人の歩き方」(擬態語)の数々を浮かべていた。最初に浮かんだのは、人生行路における文字どおり歩き始めとも言える、赤ちゃんのヨタヨタ歩きである。次に浮かんだのは、その終焉間際に訪れるヨロヨロな... ひぐらしの記前田静良