猫の額にも満たない庭中にあってこのところの私は、百円ショップで買い求めたプラ製の腰掛に座る日が続いている。この主目的は、イタチごっことも思える、雑草取りのためである。ところが、主目的変じて腰掛に座れば逆に、私は雑草に憂鬱気分を癒されている。確かに、無心に雑草と向き合えば心が癒される。ときには地中のミミズが指先に当たり地上に現れて、ミミズ特有に身をくねくねと伸縮させて、大慌てで這いずり逃げ回る。「逃げなくてもいいよ、ミミズさん。今のぼくは、決してあなたを捕らないし、捕る必要もない。子どもの頃の罪滅ぼしに、日光で干からびないように、ホラ、土を掛けてやるよ!」。
ミミズ捕りは、子どもの頃のわが日常で定番をなしていた。わが家の裏に流れている「内田川」へ、魚釣りに向かうにあっては釣り餌に、ミミズは欠かせなかったのである。もちろん私だけでなく遊び仲間のみんなが、テグスに釣り針を着けてミミズを餌にして水中に垂らしていた。私はミミズを犠牲にして雑魚(ざこ)を釣り、わが家は晩御飯の御数の一部を賄っていた。ミミズのおかげで私は、子どもながらに家事手伝いの真似事にありついていたのである。
さて、庭中の草取りにあって私は、雑草には憂鬱気分を癒され、ミミズには深く懺悔(ざんげ)し、そして真打のウグイスにはいたく励まされている。人間界からこうむる疲れの癒しにあって、このところの私は、万能薬を凌いで庭中の腰掛に託している。雑草の中には、名を知らない草花がチラホラと入りまじっている。するとこれらはいっとき、目の保養を恵んでいる。雑草呼ばわりするにはしのびない。穏やかにふりそそぐ日光の恩恵、さらに輪をかけている。頃は良し、自然界の恩恵は底無しである。このところのわが憂鬱気分の癒しには、私は自然界のもたらすコラボレーション(協奏)にすがりきっている。
遅まきながら私は、ガラケーからスマホへと、変えた。案の定、その操作に梃子摺り、このところのわが心身は疲れ切っている。その癒しのために庭中の草取りは、薬剤に頼らない無償の処方箋をなしている。言わずもがなのことだけど、天変地異さえ無ければ自然界の恵みははかり知れないものがある。このところの私は、その恵みに浸りきっている。
四月二十八日(水曜日)、きょうもまた夜明けにおける飽きないわが自然賛歌である。援軍を率いるウグイスは、朝っぱら持ち前の高音(たかね)をさわやかに奏(かな)でている。きょうもまた私は、庭中の腰掛に腰を下ろしそうである。会話無しにひたすら黙然とするだけだから、鬱陶しいマスクはまったくの用無しである。