夜明けは、いつもの好天気

 四月二十四日(土曜日)、今朝もまた遅い起き出しである。いつもであれば文尾に書いている朝日の模様を、きょうは冒頭に書いてみる。似たり寄ったりの文章に、姑息な手段で変化をもたらすためである。
 夜明けの空は、すでに朝日に明るく染まり、大気と地上は透明感のあるのどかな風景を醸している。開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して見える、晩春いや初夏間近の清々しい朝の一コマである。いつもこんなことばかりを書いては、もちろん埒が明かない。それでも一つだけ言えることは、このところの夜明けが胸の透く証しにはなる。現在の私には、これを凌ぐおもてなしはない。
 これまたいつもの常套句を用いれば、自然賛歌は尽きない。こんなにも長く、穏やかな朝日が続くことは滅多にない。まさしく、人間界が新型コロナウイルスに滅多打ちにあっていることおもんぱかっての、自然界の飛びっきりの癒しのおもてなしと、言えそうである。かつての「ありがたや節」を借りれば、「ああ、ありがたや、ありがたや!」と、口ずさみたくなる。
 確かに、起き出しは遅くなったけれど、目覚めは早かった。そして、寝起きまでは文字どおり寝床に寝そべり、電子辞書を枕元の友にしていた。寝起きの気分は悪くない。しかし、そのため身体は疲れ切っている。ところが、いつもとはちがって自業自得の疲れとは言えない。なぜなら、わが承知の助の疲れだからである。
 こんな身も蓋もないことを書いてトンずらしたら、わが身はなさけない。それを承知で私は、結び文と決めた。ほとほと、かたじけない。「男子、厨房に入るべからず」の成句は、現代社会には通用しない。台所に向かうのは、わがささやかな朝の営みである。