大型連休、「生きています」

 四月三十日(金曜日)、目覚めてすぐに起き出して来た。現在のデジタル時刻は、5:32と表示されている。しかし、慌てる気分は遠のいている。それは、開き直りをみずからに課しているためである。きのう、一日じゅう降り続けていた雨は止んで、朝日が明るく大気を照らしている。うっかりしていたけれどきのうは、「昭和の日」という祝祭日だった。
 早やはや日本社会にあっては、きのうからゴールデンウイークという、心地良いひびきのする大型連休に入っている。こんな甘い言葉と習わしを忘れるようでは、もはや私は、朴念仁(ぼくねんじん)の世捨て人へと、成り下がっている。そのせいか、「バカは死ななきゃ治らない」という成句が、にわかに心中に浮かんでいる。
 現在のわが脳髄は、まったく文章のネタのかけらもない空っぽである。パソコンを起ち上げて書こうと決めたのは、生きている証しにすぎない。実際のところそれには、一行だけでも書こうと、決意したにすぎない。なぜなら高齢の身には、おのずからあすも生きているという保証はない。ところが、すでに一行は超えている。しかし、こんな身も蓋もない文章を書くようでは、すでに死んだも同然の「生きる屍(しかばね)」状態に変わりない。「嗚呼、なさけなや、なさけなや!」。現在のわが心地である。
 振り返れば、一年経ってもまったく代わり映えのしない、現在のわが心境である。大型連休などわが身にはまったく無縁であり、もちろん夢見る気分はさらさらない。老齢の身であれば十分に予知していた、一年めぐり後のわが心境である。ところが、例年であれば変転きわまりない日本社会にあっても、まるで映し絵を見ているような一年めぐりの実相にある。それをもたらしているのは、一年経っても衰えず止まらない、新型コロナウイルスのせいである。確かに、私にはなんら代わり映えしない大型連休である。
 ところがびっくり仰天、大型連休が去れば私には、文字どおり一つの大きな決断と、それによる実践行動が待ち受けている。それは、すでに鎌倉市の行政から届いている新型コロナウイルスに抗(あらが)う、ワクチンの予約開始への対応である。実際には五月十日から始まる、市民一斉の予約行動である。接種の優先順位は、高齢者が先駆けとなっている。するとああ無念、わが身はこの範疇にカウントされている。すでに、まるで赤ちゃんに教え導くかのような懇切丁寧な実施要項が届けられている。それでもなお分かりづらいのは、たぶんわが老い耄(ぼ)れのせいであろう。こんなにも税金と手間暇をかけて、私にはこの先へ命を繋ぐ価値があるであろうか。いやいや自分自身、価値があるとは思えない。だからと言って、「ありがた迷惑」と嘯(うそぶ)けば、わが身が廃(すた)ることとなる。
 確かにこれまでの私は、躊躇(ちゅうちょ)なく右の上腕にブスッと、注射針を突き刺されることを心待ちにしていた。ところが現在の私には、かなりの躊躇(ためら)い心がフツフツと沸いている。それはわが身に、接種するほどの価値があるやいなやへの疑念である。それでも結局、接種に向かわざるを得ないと思うのは自分が罹り、人様へうつしてはならないという、世のため、人のためでもある。
 大型連休の朝日の陽射しは、憎たらしいほどに明るくさわやかである。生きている証しの文章は、単なる書きの書き殴りである。わが身を恥じて、平に御免こうむりたいものである。