「生きるために食べている」

 四月二十三日(金曜日)、こんな書き出しはどうでもいいことだけれど、今朝の私は「おさんどん」を先に済まして、階段を上がってきた。このことではこのところ続いていた寝坊助による心の焦りはなく、ゆったりとした気分には、ほんのりと余裕さえ感じている。
 階段を一歩一歩のんびりと踏みながら私は、大それたことと、とるに足らないこと、すなわち二つのことを心中にめぐらしていた。前者は、世界社会に悲壮きわまりない難事をもたらしている新型コロナウイルスは、この先、いつ打ち止めとなるであろうかと、いうことである。一方後者は、現在のわが日暮らしから生じている、長年のわが考察における小さな結論である。
 人間は「生きるために食べるのか」、それとも真逆に「食べるために生きるのか」。これは卑近なところで、これまで永遠に軍配を下ろしようのないわがケチな考察の一つと、言えるものだった。ところが、「案ずるより産むがやすし」の成句に準じて、私はあっさりと軍配を下したのである。結局、人間いや私は、「生きるために食べている」と、判定を下したのである。この判定の依拠するところはずばり、わが「おさんどん」である。すなわち、怠けてこの行為が沙汰止みになれば、妻共々にわが家の日暮らしは途切れて、その挙句私たちは、この先を生き続けることはできない。ちっちゃなわが体験によって私は、不意打ち的に長年のわが考察に判定を下したのである。そしてそれは、きわめて下種(げす)な結論だった。
 私は、確かに「生きるために食べている」、と悟ったのである。いやいや、まだ「食べるために生きている」という、思いも引きずっている。だからやはり、今ではまだどっちつかずのわが永遠のテーマと、言えるのかもしれない。それでも結論は、いくらか「生きるために食べている」のほうへ傾いている。
 寝起きの心に焦りがあろうと余裕があろうと、文章の出来は、おっつかっつである。幸いなるかな! 近くの山から、私を「馬鹿」呼ばわりするカラスの鳴き声はない。「早起き鶏(どり)」に代わって、ウグイスが朝鳴きを続けている。もちろんウグイスはカラスとはちがって、私を馬鹿呼ばわりなどせずに、わが寝起きの気分を癒してくれている。いやいや、そう思いたい!。
 朝日は、今朝もまた煌々と照っている。わが自然賛歌は、尽きるところがない。私は、見得も外聞もなく餓鬼のように、ひたすら生き生き続けるために食べている。この先、生きる価値があるのかどうかは、「知らぬが仏(ほとけ)」である。それを知ったら、元も子もない。