寝起きの戯言(ざれごと)

 横文字やきらびやかな言葉の多用は、確かに多能や多才の証しにはなろう。しかしながら半面、頼りない才能の見せびらかしにも思えてくる。実際、時と場合においては、緊張感をともなわない実の無い言葉になり下がる。たとえ簡易な日常語であっても、分かり易い言葉がイの一番である。できれば用意周到にあずかり、「寸鉄人を刺す」言葉に出遭えば、素直に応じたくなる。
 こんな柄でもないことを浮かべて書いているのは、指示・命令あるいは要請として、突如「人流(じんりゅう)」という、言葉が多用されているせいである。わがケチな考察をめぐらせばこの言葉は、行為や行動の抑制を求めるには、はなはだ緊張感に欠けるものに思えている。確かに私は、この言葉を聞いて呆気にとられていた。挙句に、ことの趣旨をわが言葉で言い換えてみた。「今は人の流れを止めて、出会いの楽しみをしばらく我慢しましょう。コロナを止めるには、これしかありません」。私にすれば「人流」では、行動抑制の真髄からかけ離れた、緊張感をともなわない言葉に思えたのである。
 見出し語に無いことは承知の助であえて私は、電子辞書を開いた。案の定、「人流」という言葉(熟語)はない。もちろん、「人の流れ」で十分である。いやこの場合は、「人の流れを止めましょう」こそ真髄となり、私はおのずからその言葉に従いたくなる。横文字の多用もまた、必ずしもピッタシカンカンとくるものでもない。
 古来、日本社会にあってはいまだに廃れることのない、日本人にふさわしい秀逸な日本語がたくさんある。これらの言葉の中から時と場合に応じて、最もふさわしい言葉を用いられてこそ、私は使用者の多能と多才ぶりを称賛したくなる。わがへそ曲がりの証しであろう。
 四月二十九日(木曜日)、久しぶりの早起きによる寝ぼけまなこと、脳髄の空っぽのせいで、わがお里の知れる戯言(ざれごと)を垂れたようである。これまた、久しぶりの雨の夜明けである。