「目覚めの、嗚呼、無情」

 確かに、寝坊助が常態化している。四月二十二日(木曜日)、これまたこのところ定番化している表現である。それはこうである。すでに、朝日が煌々と輝いている。すなわち、夜明けはとうに過ぎている。今さらながらに私は、目覚めて寝床の中で、心中にこんなことをめぐらしていた。もちろん、わが体験上のすこしは当たる八卦、すこしも当たらぬ八卦のケチな考察である。目覚めて浮かんだ考察にすぎないから、もちろん優位差をつけようはない。
 浮かんでめぐらしていたことは、文章を書くうえでの必須の要件(大事なこと)である。言うなれば、わが体験上の主たる三要素である。それらには、こんなことが浮かんでいた。すなわち、文章を書く意欲があること、語彙(言葉と文字)の持ち合わせがあること、常々ネタ(書く題材)があることなどである。単刀直入言えばこれらは、わが文章を書くうえでの必須の手立てである。そのため、これらに翳(かげ)りが見えれば、私の場合はおのずから文章が書けなくなる。すると、こんなことが心中に浮かんだことは、翳りが見えている証しであろう。なおかつ、それに慄(おのの)いている証しであろう。
 やはり、三要素にあって、優位差(順位)をつけたい。すると、翳りの筆頭は、書く意欲の喪失である。ところがこれには、意欲を妨げるさまざまで多くの要因がある。一々、書き連ねることはできない複合の要因である。もちろん、必ずしも高年齢による書く意欲の衰えだけのせいだけではない。だからこのことは、きわめて厄介事である。
 傾向的に語彙の翳りも、自覚するところはある。ネタ不足はすでに長年書き続けてきたことで、これまた自覚するところはある。しかしながら後者の二つは、大それた文章を書くわけでもないので、まだまだ凌げてどうにかなる。やはり、防ぎようのない決め手の筆頭は、日々忍び寄る書く意欲の喪失である。
 きょうの文章は、なさけなくも「目覚めの、嗚呼、無情」である。ほとほと、みっともない。出遅れたことで、階段を跳ねて階下へ下りて、かつては「男子、厨房に入るべからず」の台所に立つこととなる。晩春における、寝坊助の朝の一コマである。