四月二十一日(水曜日)、起きて窓ガラスを覆うカーテンを開ければ、新緑まぶしい季節にある。これにわが起き待ちのウグイスが喜んで、澄明(ちょうめい)な鳴き声を高音(たかね)で奏でてくれる。小鳥の鳴き声の表現の定番には、囀(さえず)るという、ものがある。しかしながらウグイスにかぎれば、この表現は似つかわしくない。なぜならウグイスの鳴き声は、あたり一面、いや遠方まで高らかにひびきわたる堂々たる鳴き声である。さらにはウグイスの鳴き声は、主に「ホーホケキョ」と、伝えられてきた。確かに、「ホーホケキョ」のひびきがずば抜けている。しかし、ウグイスの鳴き声は、これ一音ではない。一日じゅう、鳴き声に晒されていると、さまざまな鳴き声に遭遇する。まさしくウグイスは、さまざまに鳴き声の技術を磨いて、人心に癒しをほどこしている。もちろん、ひそかに囀るときもある。またあるときは、人間いや私にたいするエール(応援歌)さながらに、まるで進軍ラッパとも聞こえるほどに、高らかにひびいてくる。山のウグイスの鳴き声は、まさに金管楽器を嘴(くちばし)に当てたかのような、私にたいする飛びっきりの援軍である。
こんなウグイスにたいし、子どもの頃の私は、なぜか近所の遊び仲間たちと一斉に、「バカ」呼ばわりしていた。何たる、みずからの「馬鹿丸出し」であったであろうか。いまさら、悔いるところである。だから今では、忸怩(じくじ)たる思いと合わせて、その行為をつぐなう気持ちでいっぱいである。
なぜ? 当時の私たちは、ウグイスを「バカ」呼ばわりしていたのであろうか。遅まきながら自問するところである。たぶん、ウグイスの谷渡りの速さに驚いて、なかなかその姿をしっかりと目に留めることができない、腹いせのせいだったのかもしれない。「メジロ落とし」(山中に囮のメジロを入れた籠)のときも、ウグイスが間抜けて、やんもち(鳥もち)に引っかかることはなかった。すると、このことにたいする腹いせもあったであろうか。
しかしながら今では、ウグイスの知恵の強(したた)かさと、頭脳の聡明さに感謝しきりである。なぜなら現在の私は、日々ウグイスの鳴き声に憂鬱気分を癒されている。確かに、美的とは言えないけれど、あんなに細身、小ぶりのからだでウグイスは、人間界なかんずく私に、日々癒しの鳴き声をふるまっている。すなわち、山の緑は目に染みて、ウグイスの鳴き声は心に沁みて、私は寝起きに二重奏のエールを得ている。これらは、この季節にあって私がさずかる特等の心癒しの恩恵である。
幸いなるかな! 山際に住む私は、ウグイスの塒(ねぐら)と、同居するほどに近くいる。加えて、山の緑のまぶしさは、かぎりなく映(は)えてあざやかである。今朝も寝坊助をこうむり余儀なく、約二十分間の書き殴りに甘んじたけれど、まったく悔いはない。このところの二番煎じ、いや三番煎じの表現だけれど、私は懲りずに気分よく表現を繰り返している。煌煌(こうこう)と朝日が降りそそいでいる、晩春の夜明けである。