前田静良

ひぐらしの記

償えない「四歳半のころのわがしくじり」

来月の九月末日付けの「六十歳・定年退職」の決まりの前に、私は先月(七月十五日)その年齢に達した。平成十二年八月十五日の早暁(そうぎょう)、壁時計の針に目をやると、五時十五分をさしている。机上のパソコンを前にして、ぼんやりと椅子にもたれている...
ひぐらしの記

物事、人生の「二様」

もし仮に寿命(命の期限)が無ければ、人はかぎりなく老醜(ろうしゅう)をさらけ出すであろう。このことでは、寿命や生涯(命の果て)を嘆くことはないのかもしれない。いや、惜しまれて尽きる命こそ、文字どおり寿(ことほ)ぐべき天寿であろう。私にはこん...
ひぐらしの記

二人の恩人は、神様

JR東海道線大船駅・駅ビル「ルミネ」(神奈川県鎌倉市)の中には、六階に「Anii」という書店がある。この書店は大船駅周辺にある三軒の書店のなかでは、駅ビルの中という至便に恵まれて、集客力がずば抜けている。この書店には買うあてどなくとも、私は...
ひぐらしの記

愛唱歌(哀唱歌)

音程を外しわが生涯において双璧を成し、歌い続けてきた愛唱歌を口ずさんでいる。『誰か故郷を想わざる』(歌:霧島昇 西條八十作詞・古賀政男作曲。わが生誕年・昭和十五年の発表曲)。花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組みながら 唄をうたった ...
ひぐらしの記

六十歳の朝

ふるさとは七月盆である。平成十五年七月十五日の起床時刻は、枕時計の針が午前四時三十五分をさしていた。鼻炎症状にとりつかれて就寝時の私は、勤務する会社製品である『スカイナー鼻炎用カプセル』の一カプセルを服んだ。すぐに、風邪薬特有の誘眠作用が顕...
ひぐらしの記

ふるさとごころ

しょっちゅう、心の中に「ふるさとごころ」を浮かべていれば人は、罪など犯さないであろう。田園風景、「内田川」の流れ、里山を代表する「相良山」は、起きて寝るまで一日じゅう、意識することもなくわが家の庭先から眺めていた。確かな、わが家特等の借景だ...
ひぐらしの記

内田川

瀬音は風の音をさえぎり、降りしきる雪は風にちらちらと舞って、ほどなく川面に吸い込まれた。川上のほうからくねくねと曲り、ひと筋流れてきた水は、コンクリートで頑丈に造られた九段ばかりの堰(せき)にあたり、白い飛沫(しぶき)を高く跳ねあげている。...
ひぐらしの記

晩年

またひとり、訃報が届きました。こんどは、元卓球クラブの仲間のおひとりです。自分が年を取ると、知己すなわち身内、友人、知人、ほか親しい人たちが年を取ります。このことは、とてもつらく寂しいです。  昼間、日差しがこぼれると、まもなく尽きるいのち...
ひぐらしの記

『思い出の歌』

私は、すでに自叙伝あるいは自分史を書く年齢に達している。言うなれば後がないのである。それでも、書くつもりはまったくない。その理由は、書いても読んでくれるきょうだいは、もはや次弘兄ひとりしかいない。だから、呻吟して書いても、割に合わないからで...
ひぐらしの記

短い文章で、『常ならず』

九月八日(水曜日)、秋彼岸を前にして残暑なく、身に堪える寒さが訪れています。生きることは常に艱難辛苦です。体(てい)のいい「自宅療養者」という言葉は、療養などありえない言葉の暴力です。きょうは、足取りおぼつかない妻の歯医者通いの引率です。平...