JR東海道線大船駅・駅ビル「ルミネ」(神奈川県鎌倉市)の中には、六階に「Anii」という書店がある。この書店は大船駅周辺にある三軒の書店のなかでは、駅ビルの中という至便に恵まれて、集客力がずば抜けている。この書店には買うあてどなくとも、私は日常的に立ち寄っている。
店に入ると、真っ先に雑誌棚へ急ぐ。そして、整然と並べられている雑誌棚に眼を凝らす。それは『月刊ずいひつ』の陳列の有る無しと、売れ行き状況を確かめるためである。このことについては昨年(平成十一年)の七月末日に、随筆スタイルで一文を書いた。題名には、『並んでいた「月刊ずいひつ」八月号』と、したためた。
昨年の五月にこの書店で、私は『公募ガイド』を買った。あわてふためいてページをめくると、多くの公募案内があった。それらのなかから私は、「日本随筆家協会」(主宰神尾久義編集長)が募る「日本随筆家協会賞」への応募を試みた。そのころの私は、平成十二年(二〇〇〇年)九月末日に訪れる定年退職(六十歳)に向けて、定年後の生き甲斐づくりに腐心していた。応募をきっかけに私は、電話で神尾編集長とお話をする機会を得た。初めての電話にもかかわらず私は、揺れ動く気持ちを率直に吐露した。
「随筆や文章を書きたいのですが、初めてでまったく自信がありません。協会へ入って、やっていけるでしょうか」
私のぶしつけの相談にたいして、神尾編集長はこんなことばを返された。
「随筆や文章は、ふだんの日本語で書くものですから、なにもむずかしくはないですよ」
かなり、安堵感をおぼえたおことばだった。
すぐに、入会を決意した。入会後は、二〇〇〇字(四百字詰め原稿用紙五枚程度)を目安にせっせと文章を書いては、日本随筆家協会へ送り続けた。日を置いて、神尾編集長が赤ペンで添削された原稿が送り返されてくる。こんなやりとりが、協会と協会員とのならわしだった。
入会後まもなく、月刊ずいひつ五月号の贈呈を受けた。一月後には、六月号が届いた。双方共に、掲載作品のすべてをむさぼり読んだ。六月二十五日過ぎには、七月号が送られてきた。月刊ずいひつの発行日は、毎月二十五日を一定日にしていた。(みんな、上手いなあ……)と嘆息しながら、私は最初のページから読み進んだ。実際には暑さを避けて、居間の板張りに寝転んで読み耽った。
「あれれ……? これはおれが書いたものだ!」。私が書いた『めでたい戯れ』が載っていた。月刊ずいひつにおける、栄えあるわが第一号作品の掲載がかなっていた。ところが、こともあろうに協会、いや神尾編集長は大きなミスをしでかされていたのである。なんたることか目次に、残念無念!「めでたい戯れ」とわが名が脱落していたのである。のちに私は、電話で掲載にたいするお礼のことばを先にして、恐るおそるこのことを告げた。神尾編集長は平謝りされた。
私は豹のように敏捷に跳ね起きた。勢い込んで台所へ走った。
「文子。おれが書いた文章が載ってたよ!」
「パパ。ほんとう? よかったじゃないの。パパ、よかったね! おめでとう」
二人は、その場でハグしながら飛び跳ねた。自分が書いた文章が初めて活字になったときの興奮! それは経験者なら多言を要すまい。興奮度は、デカデカの風船のようにまん丸と膨らんだ。その日、私はやもたっても折れない面持ちで、「Anii」へ出かけた。浮かぶ人たちへ送りつける、冊数のカウントをめぐらした。そして、レジ係りの女性にたいして、七月号五冊の予約注文をした。なお足りず再び、七月の中ごろに三冊の追加予約を入れた。
私は七月二十五日過ぎに、二度目の予約のものを受け取りに行った。レジ係りから受け取ると、踵(きびす)を返して雑誌棚へまわった。雑誌棚には、月刊ずいひつ八月号が並んでいた。このとき以来月刊ずいひつは、雑誌棚に並ぶようになった。私の予約注文がきっかけとなって、並ぶようになったのだ、と確信した。
そののち、発売日やすぐあとには、必ず書店へ出向いた。協会員には毎月号の一冊は、必ず送られてきた。それでも私は、雑誌棚から毎月買い続けた。馬鹿丁寧にも毎月、二度に分けて一冊ずつ、サクラ買いまがいの行為を続けた。一年間限定と決めて、進んで実行した。二度目は次号が並ぶ五日前を目安に買った。意識して、間隔を空けて買った。みずから考えた、陳列カット阻止のための行為であった。これが功を奏すれば、たぶん月刊ずいひつの陳列カットはないはずだ。
さて、その後の状況。月刊ずいひつは発行元の日本随筆家協会の消滅により、廃刊の憂き目に遭った。ところがこののちの私は、「現代文藝社」(主宰大沢久美子編集長)に救われたのである。実際には、初志の生き甲斐づくりの満願にありついている。二人の恩人は、男神、女神、あいなす神様である。