『思い出の歌』

 私は、すでに自叙伝あるいは自分史を書く年齢に達している。言うなれば後がないのである。それでも、書くつもりはまったくない。その理由は、書いても読んでくれるきょうだいは、もはや次弘兄ひとりしかいない。だから、呻吟して書いても、割に合わないからである。これまで、私はたくさんの文章を書き続けてきた。それらの文章が、十分に自分史になりかわるからでもある。
 さて、過去の文章にはこんな一文がある。『思い出の歌』。平成十年十月十五日、NHKテレビは、『あなたの思い出の歌』を特別番組で流していた。視聴者が、一つの歌にまつわる思い出を、はがき一枚に綴って局へ送り、それが元になって番組が構成されていた。採用されたはがきを、『思い出の歌』に合わせて、アナウンサーが読んでゆくスタイルである。はがきの朗読と曲が流れる前にアナウンサーは、会場に招いた投書者に短いインタービューを試みた。「あなたにとって、どうしてこの曲が思い出につながるのですか。どんな思い出があるのでしょうか」。番組のねらいの一つは、投書者の思い出の曲をひもといて、テレビの前の人たちにたいし、感動編を送りとどけることだ。そして、投書者にまつわる思い出の歌をみんなで共有し、過ぎた時代をふり返る仕立てだった。
 はがきが採用された方のなかに、わがふるさと・熊本からみえられたご婦人がいた。「わたしが五歳のときに戦争が終わって、母の、『お父さんはもうすぐ帰ってくるのよ』ということばを信じて、わたしは父の帰りを待ちました。しかし、父は途中シベリアに抑留されました。結局、父が帰ってきたのは、五年もあとでした。ところが、再会の喜びに浸りはじめていたころ、父はシベリア生活の疲れで病床に臥して、二年後に亡くなりました」。
 ここで、『異国の丘』のイントロが流れた。そばで、私と一緒に観ていた妻が、「『異国の丘』って、こういう歌だったのね」と、涙声で言った。私の両眼からも涙があふれ、「なに、知らなかったの?」と、口にするのがやっとだった。
 妻は、私より三つ年下で、生まれた年代はそう変わらないのに、家族に戦争犠牲者が出ていないためなのか、普段から戦争への思いは、私とは大きく違っている。はからずもご婦人は、年齢が私と同じで五十八歳だった。だから余計、私にはご婦人の心中を察すると忍びないものがあった。どんなにかつらく、くやしいお父様との別れであったことだろう……。
 戦争が終わって、私が小学生のころのあるとき、『鐘の鳴る丘』という、劇が中学校の学芸会で上演された。私の曖昧な記憶のなかに、兵隊さん役の良弘兄の姿がよみがえる。私と五つ違いの良弘兄は、兵隊さんの役のひとりとして出ていた。子どもたちの学校行事には父は、母に先駆けていやどこのだれより早く出かけて、その場に陣取っていた。「子どもたちを思う父さんの気持ちは、到底わたしがかなうものではなかったよ」。生前の母が、いつも私に語りかけていたことばである。
 父は、拙いながらも熱演する兄の姿をどんな気持ちで、観ていたのであろうか……。年齢を重ねるたびに私は、戦争にまつわる父の心模様を知りたくなっている。その一端として私は、父が戦争の結末に早くから懸念をいだいていたということを、兄姉たちから聞いていた。父は昭和十九年から二十二年の四年間にかけて、五人もの子どもたちを葬送している。父は先妻を病没し、のち添えに私の母を迎えた。四十歳と二十一歳、年の差十九の花婿、花嫁である。父は、異母に六人、わが母に八人の子どもをなした。文字どおり、父は「律義者の子沢山」だった。
 あえて、子どもたちの名を記すとこうである。「護、スイコ、利行、ハルミ、キヨコ、年清、セツコ、一良、テルコ、次弘、豊、良弘、静良、敏弘」である。これらのなかでは、年清が戦場で斃(たお)れ、利行は海軍の軍務半ばで病魔に見舞われて、自宅へ戻り病死した。ほか三人は、事故や病気で亡くなった。父は、昭和三十五年十二月三十日、病死した(享年七十五)。私が生まれたときの父の年齢は五十六歳であり、すでに好好爺然とした風貌であった。目立った特徴は、禿げ頭だった。おのずから父にまつわるわが思い出の歌は、「丸々坊主の禿げ頭……」という、子どもあやしの戯れ唄だった。
 『異国の丘』が歌い終わり、画面にご婦人の姿がクローズアップされた。戦時下はもとより、戦争が終わっても、じっと哀しさに耐えていた、同じ年齢の美少女が同郷にいたのである。美少女はお母さんのことばを信じて、ひたすらお父さんが帰ってくるのを待っていた。そして、会えてまもなくお父さんは病臥され、二年後に永遠(とわ)の別れが訪れたのである。
 <日本は、なぜ、戦争なんかしたのだ!>。涙をいっぱい溜め込んでいた瞼は、溜めきれず、ぽたぽたと落とした。