ふるさとは七月盆である。平成十五年七月十五日の起床時刻は、枕時計の針が午前四時三十五分をさしていた。鼻炎症状にとりつかれて就寝時の私は、勤務する会社製品である『スカイナー鼻炎用カプセル』の一カプセルを服んだ。すぐに、風邪薬特有の誘眠作用が顕われて、深い眠りに陥った。そのぶん、目覚めると鼻汁と頭重症状はすっかり消えていた。
布団の中で、(とうとう、六十歳になったのか…)と怯えて、いろんな雑念にとりつかれていた。私の意識のなかに長くとぐろをまいていた「六十歳」という年齢を現実にして、寝起きの気分は鬱になっていた。私は神妙に身を起こし、ゆったりと身なりをととのえた。二階のパソコン部屋へ上がった。文章を書くためである。
隣の部屋から、娘の寝息が漏れていた。娘に気遣い、窓ガラスを覆う、レースのカーテンをこっそり開いた。明けはじめていた空は、なお夜を引きずり薄くシルバーグレイの色をなしていた。バイク音が近づき、いっとき音を落とした。再び音を上げ、視界にバイクが現れた。バイクは、すぐに左折した。バイク音は、遠ざかり消えた。なぜか、いつもより遅い、朝刊配りのバイクだった。
外気の明暗に応じて点滅する仕掛けの一基の外灯は、いまだに明かりを灯していた。外灯は、周辺の剪定漏れのいくつかのしおれたアジサイを照らしていた。木立には、カラスが二羽いた。山に棲みつくタイワンリスの一匹が、電線を行きつ戻りつしている。山際に住んでいるせいで、いつも見慣れた光景である。
妻は階下でとっくに起きている。ドッキリ! 固定電話のベルが鳴った。すばやく、足音を殺して娘が寝ている部屋へ忍び込み、静かに子機を手にした。パソコン部屋へは戻らず、隣の部屋に入った。娘の寝息を遠ざけるためである。声のトーンを落とした。
「六十歳、おめでとう。先ほど、そのことを書いて、ファックスを入れたのだがね。うまく送れなかったもんで、朝早やいばってん、電話したたいね。まだ、寝とったろね。すまんね。ファックス、どうかしているのか」
「そうだったの。うちのファックスは、うまくいかないもんで……」
「おまえも、きょうで六十歳になったね」
「とうとう、なってしまった。だから、いやな気持になっている。今、そのことを、文章に書かこうとしていたころだった」
「おまえの誕生日は忘れんたいね。お盆だし、おっかさんの祥月命日だしね」
「うん、そう。とても、かなしい……。そうだ。あした、墓へ送って行くの?……」「なんの。きょう送るよ。十三日に迎えに行って、十五日に送る、習わしじゃけんね」
「お盆んて、そうだったかな?……。おっかさんがいたときには、十六日に連れられて、送りの墓参りに行ってたような気がするけど……」
「そうかもしれん、たいね」
「『おっかさんに、しずよしも、とうとう六十になったばな。ばってん、とても元気じゃけん、心配せんちゃ、ええばな……』と、言っといて!」
現在、私は八十一歳。ふるさとの長兄は、先月(八月二十二日)永眠した(享年九十四)。ふるさと電話(受話器)は、不通ではないけれど、すでにまったくの無用になっている。