しょっちゅう、心の中に「ふるさとごころ」を浮かべていれば人は、罪など犯さないであろう。田園風景、「内田川」の流れ、里山を代表する「相良山」は、起きて寝るまで一日じゅう、意識することもなくわが家の庭先から眺めていた。確かな、わが家特等の借景だった。
私は借景のなかに、のちの「ふるさとごころ」をはぐくんでいた。もちろん、借景に甲乙をつけることは馬鹿げている。それでも、子どものころの遊び場としては内田川に、イの一番と順位を付けざるを得ない。それは、多くのふるさとごころをはぐくんでくれたお返しでもある。内田川は、今でも生家の裏を流れている。しかし、河川工事という化粧直しがほどこされて、今では子どものころのむさくるしい川の姿はない。だからなお、わが内田川への思いは、子どものころへさかのぼり、いっそう懐かしさがつのっている。
春先の水温むころ、うららかな陽気に誘われて私は、わが家の裏を流れている内田川へ駆けた。利き手の右手には、「おなご竹」の竹藪から切り出して作った、短い釣竿を持っていた。見慣れた春の田園風景はのどかに広がり、相良山には春霞がかかっている。内田川には陽光がそそいでいる。私は待ちどうしかった春の息吹を感じていた。内田川に親しむ、春が来たのだ。わが心は弾んでいた。清流の中に出ている川石を、ひとつ、ふたつ、みっつ、と飛んで、私は釣り糸を垂れる石間(いわま)を探した。目星をつけた石の上に、体を止めた。釣竿を握り直して、体をかがめて臨戦態勢を固めた。石間を覗いて、テグスの先につけた釣り糸を水中に下ろした。わが意に応えて,石間にいるはずの魚たちを誘(おび)き出してくれるかのように、餌のミミズは、水中にゆらゆらと身を揺るがしている。こんなうららかな日には魚たちも、背びれ、腹びれ、尾びれ伸ばしに、ちょろちょろするであろう。そんな魚たちの目先に、好物のミミズを垂らしたら、ドジを踏んでパクついてくるだろう。私には子ども心に宿る、浅はかでひねたずるがしこい考えがあった。今となっては、わが無慈悲な遊び心に魚たちを嵌めて、罪を作ったことを詫びている。けれど、遊び心はつぐなえない。
魚釣りにかぎらず道端の草花などに至るまで、私は無慈悲になぎ倒し、わが遊び心は満たしていた。とりわけ魚釣りは、みずからに快楽を得て、同時に食膳の美味にありついていた。身勝手にも、このほかに無い楽しい遊びだった。澄んだ水の中を透して見ると、石間から小魚が出始めた。(いるな!)と思ったとき、指先に小さな衝撃を受けた。釣ことばでいう、「あたり」の瞬間である。私は釣り竿を上げて数回まわした。水面に飛沫が上がった。頃合いをみて回転運動を止めた。空中に釣り糸を垂らし、暴れている魚を凝視した。(何が釣れたかな?)。おおかたの予想はついている。予想は、ハゼの仲間のシーツキかゴーリキである。願っているハエなど、滅多にかからない。それでもふだんから私は、内田川の釣三昧に酔いしれていた。
釣れるたびに私は、こんどは川石を逆に飛んで川岸へ戻った。草むらの澱みに浮かせていた魚籠(びく)に、釣れた魚を入れるためである。萎えた魚の口に刺さっている釣り針を外し、魚籠に入れた。魚はしばしバタついて、蘇生の苦しさをさらけ出した。万事休すかと思いきや、魚は魚籠の水に慣れたのか、腹びれ、背びれ、尾びれをひるがえし、鰓(えら)呼吸で生き延びたのか。仲間たちと押し合いへしあいしながら泳ぎ出した。しかし、生き延びたいのちの時は限られて、魚籠のなかのいのちにすぎない。それは、限られた人の命を見るようでもあった。
懐かしく偲ぶふるさとごころとは、多くは罪作りにまみれて、切ないものばかりである。