内田川

 瀬音は風の音をさえぎり、降りしきる雪は風にちらちらと舞って、ほどなく川面に吸い込まれた。川上のほうからくねくねと曲り、ひと筋流れてきた水は、コンクリートで頑丈に造られた九段ばかりの堰(せき)にあたり、白い飛沫(しぶき)を高く跳ねあげている。堰に跳ね返されて岸辺にうち寄せられた戻り水は、あちこちに澱(よど)みをつくり、魚影をちらつかせていた。「内田川」は等間隔で、平行に架けられている二つの橋の下をくぐり抜けては川幅を広げて、川下へ流れてゆく。ちょっと下ると、川筋にわが生家が建っている。二つの橋の一方には真新しい金文字で「矢谷橋」と刻銘され、一方の橋にはなぜか「田中橋」と、書き換えられていた。わが子どものころには、「田中井手橋」と呼んでいたのに……。
 川の左岸には「矢谷」集落の民家が疎(まば)らに建ち、右岸には家人が「日隠山」と呼んでいた山裾が、谷をなして内田川へとどいている。わが生誕の地・「田中井手」集落は、矢谷橋も田中橋も渡らず、袂(たもと)に三軒ほどが点在する。私は、物心ついたときから田中井手という名に馴染んできた。季節迷いの春の淡雪は間断なくふり続けて、頭部、ほっぺた、首筋に冷たくべたついた。ひっそり閑(かん)として、周囲に人影はない。私はだれはばかることなく、矢谷橋の真新しい鋼鉄づくりの欄干のかたわらに立ち竦(すく)み、しばし見渡す風景に耽(ふけ)っていた。ぐるりと首をまわすと、見慣れてきた里山と、連なる遠峰が郷愁を駆りたてた。平成十三年二月十六日(金曜日)、ふるさとの朝の光景の一コマである。
 私は「同級生還暦旅行」へ参加するため、自宅のある鎌倉から早々と、ふるさと(熊本県鹿本郡菊鹿町)へ帰っていた。去年に続いて、二度めの「同級生還暦旅行」は、この日から二日のちの、二月十八日(日曜日)から十九日(月曜日)にかけて行われる。同級生には、昭和十五年生まれと十六年生まれが存在する。二年続けて行われるのは、同級生の誕生月を考慮し、公平をきすためである。ふるさとの幹事役たちの粋(いき)な計らいであった。一度めの去年は実施時期も同じころにあって、行き先は「宮崎への旅」だった。二度めの今年の行き先は、「天草・島原半島への旅」である。
 かつての田中井手橋は、村中を一本道(いっぽんどう)に走る、県道の主要区間をなしていた。ところが車時代になり、県道を広げて新たに矢谷橋が架かると元の田中井手橋は、旧橋とも言えないほどに置き去りにされて、今や通る人はだれもいない。しかし、寂れているとはいえ、わが子どものころの橋の姿をそのままにとどめていた。私は田中井手橋をゆっくりと歩いて、行き来した。懐かしさがよみがえり、涙が込み上げた。
 かつてのわが生家は、田中井手橋から150メートルほど下ったところに、隣家と並んで建っていた。しかし現在は、「内田川河川整備計画」の立ち退きに遭って、元のところから50メートルほど離れた田んぼの中に、新たに建て替えられている。子どものころのわが家と隣家の間には、鉄製の大きな水車がまわり、双方に動力棒を渡し、動力源を恵んでいた。互いの家は精米所を営んでいた。ところが、村中に電動の精米所ができはじめると水車では成り立たなくなり、水車は屑鉄屋に引き取られ、共に精米所を畳んだ。水車は内田川から分水を引き込み、私道みたいに長い私用の水路をつくり、ゴットンゴットンと音を立ててまわっていた。
 川中の取水口には、隣家と共同で手づくりの堰が設けられていた。取水口から水車までの水路は、共に「車井出」と呼んでいた。車井出にはウナギ、ハエ、ナマズ、はたまた雑魚(ざこ)がいっぱい泳いでいた。おとなたちは年に一度は取水口を塞いで水を止め、「魚取りをするぞ!」と、子どもたちへ呼びかけた。子どもたちははしゃいだ。双方共に一家総出でバケツいっぱいに取り合った魚は、均等に分けられた。
 手づくりの川中の堰は、大水のたびに落ち崩れた。たちまち、水路は水車の用水を失くした。水車は、堰の修復がなるまで止まった。水がひくのを待って、隣家と共同で堰のつくり直しが行われた。落ち崩れた堰のつくり直しには、いつも大きな川石と、破れた筵(むしろ)、笹竹、木の葉などが用いられた。堰づくりはおとなたちがそろって、力の要る大仕事だった。水車は隣家とわが家共に多くの命をはぐくんだ。今でもぞっとする、水車のバカ力と膨大な恩恵である。
 橋は新たにできても、内田川だけはいつ見ても変わらない、わがふるさと原風景である。