償えない「四歳半のころのわがしくじり」

 来月の九月末日付けの「六十歳・定年退職」の決まりの前に、私は先月(七月十五日)その年齢に達した。平成十二年八月十五日の早暁(そうぎょう)、壁時計の針に目をやると、五時十五分をさしている。机上のパソコンを前にして、ぼんやりと椅子にもたれている。もう長い時間、きのう見た光景を心中に浮かべている。再び、はるかに遠いあの日のことが切なくよみがえる。
 夜明けの明かりはまだ見えず薄ら闇である。産毛や綿毛さえ揺らすことができないのでは? と、勘繰るほどに風は凪(な)いでいる。窓ガラスを通して眺める木立は、グリーンカバーをかけられたかのように静止している。バス通りから折れて、わが家周りをまわる道路に、中年とおぼしきジョギング姿の男性が走り込んで来た。いつもの朝と変わらず、穏やかに人の日常が始まりかけている。戦雲下であってもたぶん、人の営みは今朝のように穏やかであったはずだ。だから余計私は、わが身がしでかした罪と、それを償(つぐな)えない悔恨に苛(さいな)まれている。歳月の経過で、癒えることなど露もない。
 私は、わが家最寄りの「半増坊下バス停」に着いたばかりだった。時刻は午前十一時ころ、雲間には日光は見えず、そのぶん暑さは遠のいていた。あと一時間余りすれば、五十五回目の終戦記念日の式典が催されるが、黙祷は出来そうにない。バス停には先着の二人の女性が立ち並び、向き合って互いに会話が交わされていた。二人は、年の差のある顔見知りのようである。ひとりは、ヤングママと合点(がてん)した。絵柄のTシャツにグレーの半ズボンを穿(は)かれた姿には、若い母親らしい誇らしさがあふれていた。ヤングママは胸に抱いた幼子(おさなご)の背中に片手をまわし、一方の手は脇に立つ女の子の指先にからめていた。胸の幼子も女の子に見えた。二人の会話は弾んで一方の人から、脇に立つ女の子へことばが投げかけられた。女の子は元気よく、「五さあーい」と言って、ちっちゃな五本の指を広げて、手の平を押し出した。可愛らしい空色のスカートを穿いた女の子のしぐさはあどけない。目に留めた私にも、笑みがこぼれた。女の子の動作は、頼りなさを残していた。私は、「五さあーい」のことばに誘われた。怪しまれないように気をくばり、女の子の動作を見続けた。(細い足だなあー…。歩けば、いくらかふらつくだろうな…。あんなんじゃ、どうしようもなかったのか!)。心中には、四歳半のころに自分がしでかした罪がよみがえっていた。
 私は昭和二十年二月二十七日の日中に、飛んでもないヘマをしでかしていたのである。私は母屋の庭先の坪中で、ひとりで遊んでいた。そのとき、精米機械のある母屋から、母が脱兎のような勢いで、坪中へ走り込んで来た。母は、「しずよし、ちょっとだけ、敏弘を見てくれんや……」と言って、わがかたわらに背中の弟を下ろした。母は、とんぼ返りで母屋の中に入った。下ろされた生後十一か月の弟は、チエーンを外された小犬のように、すぐに坪中を這いずり始めた。これまた、脱兎のような速さである。私は這いずりまわる弟を引きずるようにして、何度かは坪の真ん中に戻した。しかし弟は、私を邪魔者扱いでもするかのように嬉々(きき)として、あっちこっちへとすばやく這い這いを続けた。そのたびに私は、弟を懸命に追い駆けた。万事休す。弟は水しぶきを上げて、その先に鋼鉄製の水車のまわる水路へ落ちた。わが目先で、弟の命が消えた。私にはわが生涯をかけてもとうてい償えない罪と、癒えない傷が残った。
 このときのわが足は、女の子の足にも敵(かな)わぬほどに、ふらついていたのだろうか。弟の敏捷(びんしょう)さは、神童(しんどう)の証しだったのかもしれない。「敏弘よ。すまないねー……」。
 きのう、令和三年九月十五日、私は数か月ぶりに卓球クラブのあるわが家近くの「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ向けて、長い下り坂を歩いた。八十一歳のわが足取りは、ヨタヨタモタモタしていた。道筋には彼岸花が咲いていた。私は道すがらそれを眺めて、可愛かった敏弘の面影をありありと、浮かべていた。かなしかった。