物事、人生の「二様」

 もし仮に寿命(命の期限)が無ければ、人はかぎりなく老醜(ろうしゅう)をさらけ出すであろう。このことでは、寿命や生涯(命の果て)を嘆くことはないのかもしれない。いや、惜しまれて尽きる命こそ、文字どおり寿(ことほ)ぐべき天寿であろう。私にはこんな哲学的なことを書く能力は、もとよりまったくない。ふと、心に浮かんだことを、出まかせに書いたにすぎない。
 文章は同じ内容や事柄であっても、書く時間帯によって、表現が異なるところがある。まさしく、時々刻々に揺れ動く、心象風景のせいであろう。現在、私はこの文章を夜間いや真夜中に書いている。だから、自分が不文律にしている投稿時間の締め切りまでには、まだあり余る時間を残している。おのずから、わが心には余裕が持てている。
 いつもの私は、夜間、未明、夜明けてまもないころ、あるいは夜明けのあとに書いている。それらの多くには必定(ひつじょう)、焦燥感がともない、実際には走り書きや殴り書きを余儀なくしている。さらには一度すらの推敲さえかなわず、投稿ボタンを押している。ところが、これで済むものではない。投稿ボタンを押したあとには、文意や文脈の乱れ、さらには誤字・脱字をしでかしたのではないか? と、後悔にさいなまれている。まさしく、「後悔は先に立たず」という、フレーズの実践さながらである。
 この点、昼間に書く文章には時間の余裕があり、ゆったりとした気分で書けるところがある。さらには推敲を重ねて、間違いに気づけば何度も直しが利く。このことは昼間書きの最大の利点である。反面、昼間書きの最大の難点は、ふってわいた家事に寸断されて、精神一到や沈思黙考に、ありつけにくいことである。未明、夜明け近く、夜明けて、焦燥感まみれで書く文章にもまた、おのずからこれらにはありつけない。その点、夜間、とりわけ夜の静寂(しじま)に書く文章には、これらにありつけるところがある。これすなわち、夜間書きの最大の利点である。
 物事にはおおむね、是非、善悪、好悪などと、相対する二様が存在する。確かに、私にかぎれば夜間に書く文章には利点とは裏腹に、脳髄が眠気などにとりつかれている。おのずから文章は、まるで夢遊病者のごとく、ウロウロとさ迷うこととなる。実際にも現在の私は、夢遊病に罹っている。このところ、いくつかの文章を昼間に書いてみた。もとより、難点はあるけれど、好都合と思えるところが多々あった。だからと言って、まだ決断や決定打にはなり得ず、現在の私は真夜中に書いている。実際のところは、トイレ起きのついでに書いている。
 壁時計の針は、二時近くを指している。会心の文章など、書けるはずはない。「生きてもいい、死んでもいい」。生きているかぎり、心の安らぐ人生はない。なら、もう死んで、いいのかもしれない。矛盾の解決には、天命の裁きに任せるよりしかたがない。「小人閑居して不善をなす」。私の場合は、「箸にも棒にも掛からぬ」ことを浮かべている。あり余る時間のせいかもしれない。