ひぐらしの記 連載『少年』、十日目 まだ分別が利かない少年は、昭和二十年にわが家を襲った数々の忌まわしいできごとが、時間の経過とともに早く薄らぎ、遠ざかることだけを願った。少年は、家族の哀しみが日々疎くなることを望んだ。少年は弟や姉のしめやかな葬儀にも、実際には肉親が亡くなっ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、九日目 国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、八日目 「日本軍、敵機を撃墜せり」。勇ましく始まった太平洋戦争も、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗北により、戦局はしだいに日本の不利に転じた。戦場の不利は精神力と大和魂で覆すのだと煽られ、日本および国民は一層戦意を強めて、日本社会ますます戦時... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、七日目 桜だよりが内田村のあちらこちらから伝わり、村中は花見の宴が佳境になり、にわかに賑わっていた。少年の家の赤ちゃんの誕生は、村人の花見の酒肴には格好の話題となった。「田中井手(少年の家)では、また、子どもが生まれたげな(生まれたらしい)、何人目... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、六日目 のちに「少年」に育つ赤ちゃんの母親の名は、キラキラネームには程遠い、奇怪な「トマル」である。すなわち、前田吾一と前田トマルは、少年の父親と母親の名前である。産婆の児玉さんは、おおむね村中の赤ちゃんをひとり手にとりあげられている。児玉さんに産... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、五日目 母は道下の家で生まれた。明治三十七年二月、早田家の一男四女の二女として誕生している。母は井尻集落で生まれて、田中井手集落の前田吾一に嫁いだ。里と嫁ぎ先の間には高木や民家などはなく、ほかにも視界を遮るものは何もない。農家で生まれた母は、庭先か... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、四日目 少年の家のある所を村中では、「田中井手集落」と、呼んだ。田中井手集落には少年の家を含めて、四、五軒があるにすぎなかった。隣家とはくっついていたが、ほかは飛び飛びにあった。先に書いた、マキさんの家もその一つだった。きわめて小さな集落である。と... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、三日目 少年の家から100メートルほどの先には、往還(県道)を挟んで同じ「田中井手集落」に住む、古田マキさんの家があった。マキさんは、少年には訳知らずの独り暮らしだった。庭の一角には裏山の地中から、冷たい山水が滾々と湧き出ていた。特に夏休みにあって... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、二日目 少年の家は、内田川の川岸に建っていた。川をじかに背負っていた。家は山背に建てば、四季折々の山の移ろいが楽しめる。そのぶん、山崩れが隣り合わせにある。川背に建てば、春先の水面の陽炎に目を細めて、瀬音に身を委ねることができる。だけど、洪水の恐怖... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 連載『少年』、一日目 4月24日(月曜日)、ほぼいつもの時間に目覚めて、起き出している。しかし、現在の心境は、普段とは様変わっている。わが人生は、すでにカウントダウンのなかにある。未来はなく、過去にしがみついても、もはやいっときである。私は聖人君子ではなく、やは... ひぐらしの記前田静良