「日本軍、敵機を撃墜せり」。勇ましく始まった太平洋戦争も、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗北により、戦局はしだいに日本の不利に転じた。戦場の不利は精神力と大和魂で覆すのだと煽られ、日本および国民は一層戦意を強めて、日本社会ますます戦時色を濃くしていった。マスメディアは戦地の苦戦を善戦という言葉に置き換えて、まるで勝利者のように進軍ラッパを吹き続けた。マスメディアは国民を有頂天にさせながら、限りない我慢と士気の高揚に努めた。子ども同士の喧嘩であっても、負けを覚悟すれば最後のあがきから、一瞬蛮勇が湧いてきて、自分の勇気と腕力を疑うほどの胆力が出るものだ。この頃の戦況はもはや、それに似ていたのではないだろうか。
ラジオや新聞で、「勝っているぞ。勝っているぞ!」と、囃し立てれば勝利を願う国民は、たちまち勝利者気分に酔いしれる。社会の木鐸をになうはずの当時の報道には、「嘘を真に」丸めたものが多かった。ところが昭和二十年には、敗戦の色濃いはずのアメリア軍が、忽然と日本本土に爆撃を激化させた。艦載機やB29が飛来し、日本の空に爆音を轟かせた。
内田村にも、編隊を組む機音が地響きを立てた。南の空、西の空から現れる機影の恐ろしさは、少年を怯えさせ心に焼きついた。少年は綿入りでできた布製の防空頭巾を頭に被り、紐を顎の下で固く結んだ。警戒警報と空襲警報を伝える半鐘の早鐘が打ち鳴らされると、少年は近くの防空壕へ一目散に駆けた。銃後の守りは、戦場における戦意の高揚に重きをなしていた。全国民は、要の兵士の戦意の高揚とエール(応援歌)伝えに躍起となった。女性や子どもたちは竹槍の訓練、そしてまた、千羽鶴、千人針、慰問袋作りに勤しんだ。回覧板は、戦時下にかかわる美談で埋め尽くされた。国民は戦争の実態など知らぬままに、みんなが銃後の守りに営為した。
一方、空襲や爆撃の多い都会からは恐れて疎開が始まり、辺境の内田村にまで、身寄りを頼り疎開者が来た。少年の家の近くで記憶にある人では、森さんという人が来ていた。精米業を営む少年の家では、他人様の家族構成や家族の人数の増減が真っ先に見えた。ときには見知らぬ人が訪ねて来て、母に「米を分けてください」と、せがんだ。そんなおりの母の応対は、飛びっきり優しく丁寧だった。母はたぶん、わが身に他人様の事情を重ねていたのであろう。少年の家では、異母二男の利行兄が海軍の軍務に就き、三男の利清兄は戦地に赴いていた。だから母は、相身互い身の思いで応対した。
昭和十九年から二十年にかけては、なお意気軒高な報道とは逆に、戦地はいよいよ敗け戦の状態に陥っていた。少年の父は戦争の結末を案じて、秘かに(もう、降参)の手を上げかかっていた。もとより、父にそれ以上の勇気を望むのは、酷というものであろう。しかし、父がそういう見識をいだいていたことには、少年は父にたいし、十分に敬愛をつのらせることができた。
アメリカ軍は、一向に白旗を上げず、終戦(敗戦)のシグナルを見せない日本政府に苛立ち、とうとうとどめの原子爆弾を広島市(八月六日)と長崎市(八月九日)に相次いで落とした。そしてこの年、昭和二十年八月十五日、NHKラジオの昼のニュースの中に、昭和天皇陛下のみことのり(玉音放送)を挟んで、終戦(日本の敗戦)が告げられた。
この日の少年の年齢は、五歳と一か月だった。少年は隣の遊び仲間の子どもたちと、田んぼ脇の小川に入り小魚取りに興じていた。上の兄たちは、近場の「蛇渕」(淵深く、近場にあった人気の水浴び場)で、水浴びをしていたと言う。ところが少年と兄たちは、海軍の軍務半ばで病気になり、自宅療養中の異母二男利行兄に呼び戻されて、縁先に並べられた。軍務という職業柄、無念の表情を露わにした利行兄は、普段の優しい表情を鬼面に変えていた。「おまえたちはこんな日に、遊んでばかりいるな!」と、厳しく叱った。この後では、敗戦の事実と玉音放送の内容を兄の言葉で伝えた。少年は敗戦の悔しさより、兄の厳しい言葉に震えあがった。少年は戦争のとばっちりを受けて、平和な日の訪れを願った。