連載『少年』、六日目

 のちに「少年」に育つ赤ちゃんの母親の名は、キラキラネームには程遠い、奇怪な「トマル」である。すなわち、前田吾一と前田トマルは、少年の父親と母親の名前である。産婆の児玉さんは、おおむね村中の赤ちゃんをひとり手にとりあげられている。児玉さんに産湯を浸かわされた赤ちゃんは、「オギャ」と、ひとこえ泣いた。赤ちゃんはおたまじゃくしのように丸まって、文字どおり赤いからだをこの世に現した。頭だけがバカでかく、二頭身にも満たない。頭部と腹部だけがヒョウタンのように膨らんでいる。
 昭和十五年の世界の空は、戦雲が垂れ込めていた。前年に太平洋戦争が勃発し、翌年には日本も参戦した。日本は昭和十六年十二月八日、アメリカ合衆国の一つ、ハワイ州のパールハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃を仕掛けて、戦端を開き戦時体制に入った。ここを先途に日本社会は、戦線と戦場そして銃後の守りを固めて戦時色を深めてゆく。気休めにも、「赤ちゃんは、良い時代に生まれましたね!」などと言う、時代ではなかった。それでも児玉さんは、「五体満足の、とても元気な赤ちゃんですよ!」と、産褥の母に告げた。「そうでしょうか。それならばいいですけど、まあ、五体満足であれば、それが一番です」。母は張りつめていた気持ちを解すかのような表情で言って、からだを返して赤ちゃんを見遣った。赤ちゃんのからだは骨太で、生まれたての体重は、はるかに赤ちゃんの標準メモリを超えていた。
 父親は赤ちゃんに「静良」と名づけた。彼は父と母の慈愛のもとに、幼児から『少年』へとつつがなく育ってゆく。しかし母の目だけはのちに、少年の動作が尋常でないこと見抜いていた。母が(この子は普通ではないのかな………)と、訝る少年の動作の一つは、食事時に見られた。少年は、よく御飯をポロポロポタポタと零した。もう一つに少年は、床に置く鍋や物にしょっちゅう足を引っかけた。二つとも、少年の注意力が緩慢であったり、散漫であったりする確かな証しだった。(この子は、どこかの神経が切れているのだろうか)。(心身のバランスに破綻があるのであろうか)。母は少年にたいし、こんな疑念をもった。少年は、父の五十六歳、母の三十七歳、時の誕生である。父はすでに、祖父とも言われてもいいほどの年恰好であり、母とてヤングママの呼称など過去に忘却していた。しかし、母の背中におんぶされると少年には、母の背中は楽しい「ゆりかご」となった。
 母の背中はたくさんの子どもたちをおんぶして鍛えられていたけれど、大柄の少年には窮屈なベッドでもあった。少年はまだ固まらない首をもてあまし、背中をカブトムシのように丸めて、母の背中にしがみついた。母は背中の少年の両足をカエルのように曲げたまま、兵児帯で自分のからだに確りと結んだ。その恰好は柴刈りのおりに背負う笈籠のようでもあり、茶摘みに背負う茶摘み籠のようでもあった。確りと結ぶことで母と少年は、離れてはいけない運命共同体になった。
 少年は退屈すると、指をしゃぶった。母の髪を引っ張った。「じっと、しとらんかい! もうすぐ下ろしてやるけんね……」。少年はいろいろなしぐさで、母を困らせた。しかしそれは、あどけない少年が母へ送る、甘い親愛のシグナルだった。少年は洟を垂れては、母の背中に擦りつけた。少年の涎は、垂れるままに母のうなじに流れた。生暖かい涎も冷えると冷やっとして、母の首はブルった。母は父へ嫁いで、子どもたちを産むたびに、こんな情景を繰り返した。
 戦況は少年の成長に合わせるかのように日増しにいっそう激しくなり、日本社会は一足飛びに戦時下の営みと戦時色を強めていった。少年の誕生で母の子育て人生は、打ち止めになるはずだった。ところが、ならなかった。父は六十歳になり、母は四十一歳になろうとしていた。少年の誕生から三年三か月ほど遅れて、少年の唯一の弟が誕生した。名は敏弘である。桜の花が咲く頃の昭和十九年三月三十日のことである。