母は道下の家で生まれた。明治三十七年二月、早田家の一男四女の二女として誕生している。母は井尻集落で生まれて、田中井手集落の前田吾一に嫁いだ。里と嫁ぎ先の間には高木や民家などはなく、ほかにも視界を遮るものは何もない。農家で生まれた母は、庭先から続く田んぼ仕事の合間に、農家を兼ねて水車を営む父の男ぶりを見ていた。少年の母と父は、大正十四年の七月に華燭の典をあげた。このときの母は二十一歳、一方、父は四十歳だった。父には途轍もない若い花嫁だった。母は初婚だったが、父は再婚だった。年齢が十九も開いているうえに父は、先妻のトジュ様との間に生まれ遺した五人の子どもたちを連れて、新郎の席についた。四十歳の子連れ男が、若い花嫁をもらったのだ。母と父は、口さがない村雀たちのやんやの話題になったであろう。少年はこの縁組をだれがとりもったのか? など、知るよしない。
少年の母は、内田川を挟んだ里の田んぼから、遠目に眼を凝らして田中井手の父の姿をチラチラと見ていたであろう。たぶん、このときの母は、痛々しさに加えて憐憫の情に駆られていたのかもしれない。なぜなら母は、トジュ様の病没のあとに残された父と多くの子どもたちを、かなり不憫に思っていたはずである。それでも、優しい母はそれを承知で父へ嫁いだ。母の立場でかんがみれば、「なぜ? 結婚するの! 同情するのは止めといたら……」と、言いたくなる母の結婚条件だった。少年には父を助けるだけの母の結婚だったら、母がかわいそうに思えたはずである。少年がいくら頭をめぐらしても正解のない、母と父の出会いであり結婚に思えた。
母は決意して井尻集落から田中井手の父のもとへ、「田中井手橋」を渡った。めでたさの中にあって、大きな賭けみたいな母の結婚だったのである。ところが父は、大きな真心と愛情に優しさを添えて、若い身空を思い悩める母の気持ちを受け止めてくれた。母の賭けは、村雀たちの嘲笑を見返すかのように勝利した。母は田中井手の父のもとで、確かに日々忍びながらも一歩一歩、母の新たな生活を固めていった。
少年の父は、二度目の結婚だった。父は明治十八年二月、村中の「小伏野集落」で生まれている。少年にとって祖父にあたる前田彦三郎は、長女、二女、そして三番目に父をもうけた。姉二人がいるとはいえ父は、祖父の一人息子であり待望の長男だったのである。父の最初の結婚は二十三歳で、花嫁は近隣の「辻集落」の鶴井トジュ様だった。トジュ様は三つ年下で、二十三歳と二十歳のカップルが誕生した。祝儀の模様や、新居をどこに構えたかなど、少年の知るところではない。少年の生まれる前の遠い、明治四十一年七月のできごとであった。もちろん少年の推察のうえだが新郎新婦は好き合って、甘美な新婚生活をスタートさせたであろう。
トジュ様は、長男護、長女スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清の五人の子どもたちを産んだ。少年はトジュ様を知ることはなかったが、トジュ様の兄で伯父様にあたる鶴井仁平さんは知った。伯父さんはとても人懐こいひとだった。いつもニコニコ顔の伯父さんを見ると少年は、妹のトジュ様もまた、心根優しい人だったろうと思った。少年にとって異母のトジュ様は、会うことのできない伝説の人だった。しかし、トジュ様が産んだ子どもたち(きょうだい)にかんがみて、母として思いを馳せ、偲ぶことはできる。少年はそうすることで、トジュ様からは「母の愛」を、異母の兄姉たちからは「きょうだい愛」を授かっていた。血のつながりはなくても、異母きょうだいを通して母親と子の縁はある。
少年にとって、二人の母の愛情に耽れることは嬉しいことだった。二人の母は、宿命のように父を愛してくれた。父は、二人の母の愛に応えてくれた。その証しには父と二人の母の生活、異母と母がつないだきょうだい愛に、少年は十分にそれをみとれるものがある。母はトジュ様が遺した子どもたちを慈しみ、みずからも多くの子どもたちを産んだ。それらの名は、長女セツコ、長男一良、二女テルコ、二男次弘、三男豊、四男良弘、五男静良(少年)、そして、最後尾は六男敏弘である。少年は、昭和十五年七月十五日、呱呱の声を上げた。内田村においては、七月盆のさ中である。