連載『少年』、九日目

 国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、怒号まじりの説教と詳しい説明を受けた。兄の言葉が終わると少年は、濡れた猿股パンツを脱いで、乾いたものに取り換えた。この日はそののち、神妙に家の中に閉じ籠った。少年は戦争の勝ち負けがどういうものかも知らずに、終戦(敗戦)の日を迎えていた。
 少年はあくる日からまた、小魚取りや水浴びに行った。夏の間、猿股パンツだけで裸丸出しの少年の肌は木炭のように黒びかり、少年は内田村の山河を遊びまわった。少年はひと月前の七月十五日に、五歳の誕生祝いを終えていた。少年にとって昭和二十年は戦争が終わった年というより、三人のきょうだいを亡くしたつらい年として心に刻まれた。少年はこの年の二月二十七日に、自分の子守どきのへまで、唯一の弟・敏弘の命を絶った(生後、十一か月)。結局、敏弘は一歳の誕生日を迎えることなく、家族の言う敏弘は誕生日前に歩くだろうという予想をも覆し、短い命を絶った。少年の生涯から、弟を持つ兄の気分は幕を下ろした。少年にとって、弟との生活は短い間だった。だけど、敏弘が味あわせてくれた、兄の気分は最高傑作だった。弟のからだを抱き上げることで、兄の肌身に、弟の感触が伝わった。
 戦地に赴いていた異母三男の利清兄は、戦地から帰らぬ人となった。帰らぬ日となったのは、七月十七日。父は利清兄がフィリピン・レイテ島・ビリベヤ方面で、名誉の死を遂げたという公報を受け取った(独身、二十三歳)。「名誉の死などあるものか!」。父は憤慨した。少年は後日談で母長男の一良兄から、切ない話を聞いている。「利清兄には、戦地に恋人がいたらしい……」。利清兄は、異国の地に若い命を埋めた。
 少年の家には時を置かずに、またもや不幸が訪れた。体つきも性格も少年に似ていたという、母二女のテルコ姉が病魔に攫われたのである(若い身空の十八歳)。病は単なる盲腸炎から腹膜炎を併発していた。テルコ姉は、二日後に終戦となる八月十三日、病床で見守る家族のそれぞれに、途切れかかる声を細く絞り出し別れの言葉を告げた。テルコ姉は少年の手を取って、息絶え絶えに掠れる声で、「しずよし、力強く生きて、わたしの代わりに親孝行をしてね……」と、言った。今、このフレーズを書いている少年の両眼には、こらえきれなく悲しい涙があふれている。父と母はこのとき以来、「テルコは、戦争さえなければ死なずに済んだ」と、言い続けていた。この言葉は、家族に臨終を告げた村中のかかり医院・内田清医師からの受け売りでもあった。内田医師はこの言葉に添えて、「薬さえあれば娘さんは、盲腸炎くらいで死ぬことはなかった!」とも、言われたという。戦争が招いた、哀しい言葉だった。
 敗戦後のことなどわかりようのない少年には、この先の生活など気に懸けることはなかった。しかし、弟、兄、姉と、三人のきょうだいを亡くした昭和二十年は、少年の心の襞につらく悲しい記憶として刻まれた。戦争が終わって国民は、一様に脱力感に見舞われ、さらには悲壮感、疲労感、虚無感などの三竦みの気分にも襲われた。一方で国民は、これまで体験したことのない敗戦国の戦後処理とは、どういうものになるのであろうかという、不安に苛まれた。少年の家にも他家にも悲しみが伝えられて、戦争の傷跡が痛んだ。
 昭和二十年八月三十日、日本国民は神奈川県厚木飛行場で、タラップを下りてくる連合国最高司令官マッカーサー元帥の一挙手一投足に怯えた。敵軍の将は太いパイプをくゆらして、戦いを終えたばかりの適地に悪びれる様子もなく、また凱旋将軍の傲慢ぶりも見せずに、淡々とタラップを下りた。日本国民が懸念していた戦後処理は、敗戦国日本からみれば国民生活に配慮された、望外の温情に満ちたものだった。日本国民はひとまず悲憤慷慨の胸をなでおろしたが、以後七年間にわたり、敗戦を被った占領国の呪縛に耐えなければならなかった。敗戦であっても、ようやく戦争は終わった。夜間、人々の家の電燈からは灯火管制でかぶせていた布切れが外され、裸電球が明るく灯ったのである。