まだ分別が利かない少年は、昭和二十年にわが家を襲った数々の忌まわしいできごとが、時間の経過とともに早く薄らぎ、遠ざかることだけを願った。少年は、家族の哀しみが日々疎くなることを望んだ。少年は弟や姉のしめやかな葬儀にも、実際には肉親が亡くなったという意味や悲しみのすべてを、感得できる年齢ではなかった。ただ土葬のおり、棺に泥をコロコロと落とすときだけはひたすら悲しく、号々と泣いた。皮肉にも本当の悲しみは、少年の成長に合わせて増幅した。
ところが、少年の家にはこの先も不幸が続いた。昭和二十一年十一月には内田村を遠く離れて、福岡県大川市(筑後)に住む、義兄・秀夫さんのもとに嫁いでいた異母二女のキヨコ姉が、突然の心臓麻痺で亡くなった(二十七歳)。キヨコ姉と義兄は、一粒種の赤ん坊新治君を遺した。不断のキヨコ姉は、頑丈この上ないほどの丈夫な体だったらしい。父は届いたキヨコ姉の訃報を手にして、「キヨコが死んだ? そんなばかな、人違いだ!」と、絶句した。父は異母一女のスイコ姉がすでに嫁いでいた筑後に、妹のキヨコ姉をも嫁がせて、安心しきっていた。異郷からの悲しい知らせだった。
戦後という切ない名称を付されて日本の国には、復興の槌音が響き始めた。少年の家でも、敏弘を吞み込んだ水車は、日々荒々しく回った。生業とはつらいものである。少年の家は、忌まわしい内田川の水から離れることができず、いや日常の生活用水として、なお内田川に家族の命を託さなければならなかった。少年の家は、またもや不幸に見舞われた。昭和二十二年一月、日頃わが家で病気療養中だった異母二男の利行兄が、闘病に勝てず力尽きて亡くなった(三十三歳)。チズエ義姉との間には、これまた一粒種の晟暢君が生まれていた。利行兄は志願して海軍の軍務に就いていたが半ばで病になり、療養のためわが家へ帰っていた。療養中の兄の姿には、軍務を諦めざるを得ない悔しさと国にすまないという、思いが滲み出ていた。鄙びた内田村を出て世間を知る兄は、それゆえ世の中の動きを直視していた。父は子どもとはいえ兄には一目置いて、大きな信頼を寄せていた。それに応えて兄は、父の相談役をも務めた。戦時色を深めてゆく日本の国にたいし二人は、行く末を見据えていた。海軍勤務という職業柄の気概もあってか、兄の愛国心は常に高揚した。病身とはいえ背筋を伸ばし、凛々しく佇む兄の姿に少年は、近寄りがたい思いを抱いた。年の差も離れていた。しかし、兄の威厳には怖さばかりではなく、常に優しさが付き纏っていた。だから、少年にたいする兄の威厳は、少年の兄にたいするする敬慕にかわった。兄は職業軍人特有に、親に孝行する心構えと、きょうだい愛に格別腐心していた。なかでも、弟妹にたいする向学の勧めと、それを支える気持ちは殊更旺盛だった。わが母の一男一良兄は、「おれは利行兄のおかげで、旧制中学にも行けた」と、常々口癖のごとく言っては感謝頻りだった。利行兄の強い体と高い見識は蝕む病魔には勝てず、日本の国の敗戦を強く悔いたのち、短い人生が閉じた。利行兄は軍務半ばで、胸の病に罹っていた。少年の家はほぼ三年間に、五人の子どもたちを野辺に送ったのである。
この悲しみは少年の小学校への入学程度で、忘れ去れるものではなかった。少年の家に不幸はいつまでとりつくのであろうか。父と母そして家族に、涙が乾ききる日はまだ遠く、悲しみを克服する日が続いた。しかし、戦時下および戦後にあっての哀しみは、国民だれでもが一様に見舞われ、耐えなければならなかったのである。少年の小学校への入学は、利行兄の他界の悲しみまだ消えないのちの、この年・昭和二十二年の四月初旬だった。内田村にあっては、桜の花の散り際だった。