少年の家は、内田川の川岸に建っていた。川をじかに背負っていた。家は山背に建てば、四季折々の山の移ろいが楽しめる。そのぶん、山崩れが隣り合わせにある。川背に建てば、春先の水面の陽炎に目を細めて、瀬音に身を委ねることができる。だけど、洪水の恐怖に慄くこととなる。
少年の家は内田川の水量を頼りにして水車を回し、精米業を営んでいた。内田川が精米業を恵んでなりわいが立ち、大勢の家族はつつがなく暮らしていた。矢谷、滝の下、二又瀬、深瀬などにも水車が回っていた。水車の音は、のんびりと「コトコト、コットン」とか、「ゴットン、ゴットン」ではなく、轟音を唸らして速回りをしていた。水車の回転は水量の加減で変調し、水量しだいで速くも遅くもなった。いっときも家族は、水車の音に気を懸けていた。戸外の取水口には、水量調節機能の「さぶた」がしつらえてあった。水車の回転音に変調を感じると少年の母は、矢玉のごとく飛び出し、一目散にさぶたの所へ走った。
水車の家内仕事は、主に母の役割だった。水車は、母の動きと手捌きで回っていた。少年の母は、水車番の家中のエンジニアであった。母は大家族を支え一方では、せわしなく回る精米機や製粉機などをエネルギッシュに操っていた。母の働きぶりを見る少年は、母は何に憑かれてこんなに働くのだろうかと、思った。母の左の手首には、大きな傷痕があった。それは少年に記憶が芽生える前に、製粉機のベルトに巻き込まれたおりのものと言っていた。大参事なのに、少年には母の事故の記憶はない。しかし、いつもの母は、怯むことなく、働きどうしだった。少年は、このことだけでも「母は強い」と、実感した。
水車は大水の日などでは恐怖まじりに、真っ先に村人の口の端にのぼった。どこどこの家が水に浸かったとか、もう危ないとか、村中の被害状況は一番先に、あちこちの水車の家から伝わった。その証しに地区の消防団は、先ずは水車の家に見張りに張り付いていた。
周囲の山並みは、少年の心を離さなかった。はるかに望む連山の風景もあれば、庭先からちょっと入るほどに近い里山もある。内田村は自然界の織り成す山・川のなかにあって、村人は農山村の産物で暮らしを賄っていた。少年にとって山は、風景を愉しむ山と、生活の場としての山に、分かれていた。眺望を愉しむ山は、東方遠くに県境の峰を望み、近くには里山の雄「相良山」を眺めていた。
少年の家から相良山は、内田川を挟んでいた。川向こうには、川岸伝いに平坦な田んぼが連なっていた。やがて田んぼは狭隘な畑地へ変わり、その先はなお狭い段々畑の重ねを成していた。段々畑は、相良山の山裾へせり上がっていた。相良山の裾野は地元・相良地区共有の村山を成し、人工の耕地となり一面、栗林になっていた。遠峯の稜線は主に国有林の杉林になり、下る所の合間には孟宗林が混じり、空の色と山の色をくっきり分けていた。
少年の家から眺める相良山は、典型的なおむすび形で、里山の風情を漂わせて、少年、家族、村人を和ませていた。生活の場の山は、少年の家が加わる近くの山下集落の山だった。ここにもまた、この地区の共有林があり、シイタケ目当てのクヌギ林と、炭焼きや薪取り用の雑木林が山を成していた。竈(かまど)の薪(たきぎ)は、ほとんどこの共有林から取り、ようよう背負って、ヨロヨロと持ち帰った。