連載『少年』、一日目

 4月24日(月曜日)、ほぼいつもの時間に目覚めて、起き出している。しかし、現在の心境は、普段とは様変わっている。わが人生は、すでにカウントダウンのなかにある。未来はなく、過去にしがみついても、もはやいっときである。私は聖人君子ではなく、やはり心寂しいものがある。私は定年後の有り余る時間を考慮して、定年(60歳)間近になると、文字どおり文章の六十(歳)の手習いに着手した。手元には何ら資料(記録)もなく、浮かぶままにほぼ一日がかりで、書き殴りの文章を書き終えた。ところが、苦心したことがもったいなくて、全国公募誌に応募し、急いで最寄りのポストへ投函した。すると、2000年2月・第234号の目次にわが名を見つけた。そして、こんな表彰に浴していたのである。第72回コスモス文学新人賞奨励賞(ノンフィクション部門、「少年」(99枚)、前田静良 神奈川県。
 「ひぐらしの記」には場違いなので、私は大沢さまにお許しを請うた。私は2000年9月に、六十歳で定年退職をしている。焦る気持ちで、『少年』を読み直し、身勝手にもこの先長く、連載を決めたのである。これまで私は、だれも読まないたくさんの文章を書いてきた。もちろんこのたびの連載も、読む人はいない。しかし、わが文章手習いの原点であり、余生短いための焦燥感もある。心して、『少年』の連載のお許しを願うものである。
 『少年』、連載一日目である。
 内田小学校一年生になったばかりの少年は、わが家に向かって石蹴り遊びをしながら帰っていた。いつ帰り着くやらあてどもない。緊張した入学式から日が経って、少年は学校生活に馴染み始めていた。石がコロコロと転げた。転げて、道路の路肩の草むらに止まった。少年は大きく息を吸った。また少年は、石を蹴った 。追っかけて走ると、背中のランドセルがカタカタと鳴った。ランドセルは、まだ少年の背中に馴染んでいない。少年が走るたびに、ランドセルは上下左右に跳ねて、よそごとのようにソッポを向いた。
 蹴った石が、こんどは遠くへ飛んだ。昼間の「仏(ほとけ)ン坂」は、少年の家が左手に見えて、少年から恐怖心は取り除かれていた。一年生の帰りを待つ母の顔が浮かんだ。少年は気ままに石を蹴って、わが家との距離を詰めていた。そのたびにランドセルの中で、真新しい教科書は、あちこちへぶつかった。教科書は少年の遊び心に、とばっちりをこうむった。
 昼下がりを歩く少年の下校姿は、眠気を誘うほどにのどかである。少年の目に太陽の白い光が、石がら道に照り返り、少年はまぶしさで目の上に手をかざした。「内田川」の川面に沿って、村を貫く一本の県道がくねくねと曲がっている。少年の家と学校を結ぶ通学路は、この道以外にほかにはない。周囲を山並に囲まれた、当時の熊本県鹿本郡内田村(現菊鹿町)は、山背の鄙びた農山村の佇まいを見せていた。
 内田村は県の北部地域に位置し、遠峯は熊本県、福岡県、大分県との県境をなしている。現在の菊鹿町は、旧内田村、旧六郷村、そして近隣の菊池郡旧城北村のとの三村合併のおりに菊鹿村となり、十年後に町名に変えたものである。村の中央には一筋の川が流れていた。村人は、内田川とも、「上内田川」とも、呼んでいた。山あいから流れる川は、蛇行を繰り返してその先は大海へ向かう。内田川は途中、菊池川に呑み込まれて川の名を消して、有明海へとそそいでいる。
 村の南に開けた鹿本・菊池平野は、平野とは名ばかりで、狭い盆地の中に田園風景を広げていた。北の山部に向かっては、猫の額ほどの段々畑が重なり合い、山裾を踏めば奥深い国有林へと連なっている。村には自然界の息遣いだけが聞こえて、人の暮らし向きはひっそり閑としている。