ひぐらしの記 「人の命は、一瞬の闇の中にある」 人生は、一寸先は闇の中にある。古来、普(あまね)く諭(さと)されている人生訓である。確かにそうだ。しかし、あまりにも大雑把すぎて、臨場感をともなう悲しみはない。だから私は、起き立てに浮かんだわが刹那のフレーズ(成句)に置き換えている。 命... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 宴(うたげ)のあと 七月二日(金曜日)、起き出して来て、窓ガラスに掛かるカーテンを開けた。しばし、窓越しに山の法面に咲く、わが手植えのアジサイを眺めている。嵩高くかつ横に列なり咲いているアジサイは、梅雨の雨に黒ずんで濡れている。晴れの夜明けであれば彩りを違(た... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 わが命の現在地 わが普段の買い物にはほぼ定番のコースがある。このコースをきっちり歩けば、おのずから持ち帰ることのできる買い物の嵩(かさ)と重量は、ほぼ限界に到達する。わかっちゃいるけれどほぼ毎度、私はこのコースをたどることを習わしにしている。そして帰途にあ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 新たな歯医者通い、つれづれ 六月二十九日(火曜日)、夜明けの梅雨空は、地上に小ぶりの雨を落としている。窓ガラスには雨粒が電燈に照らされて、一面にべったりと無地をなしている。窓は開けないままに眼下の道路へ目をやると、一基の外灯に照らされて道路が濡れている。雨足の跳ね返り... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 居座り続ける「嗚呼、無情」 いずれ、『ひぐらしの記』のページに残るわが文章の特徴はこうである。すなわちそれは、書き置きや時間的へだたりのない、起き立てのわが気持ちや状態の吐露にある。確かに、私日記スタイルだけれど、一日の出来事を後で記す日記とは、かなり異なるところがあ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 なさけなくも、無題 六月二十七日(日曜日)、目覚めて長い時間寝床に寝そべり、飽きて仕方なく起き出したて来た。さまざまな雑念や妄想、そして総ぐるみのプレッシャーに負けて、文章が書けない。もとより、書く気になれない。つらい。いや、ほとほと不甲斐ない。私はなんで、こ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 さずかったご教示(再録) 六月二十六日(土曜日)、現在の私は、わが恥などかなぐり捨てて、真摯な気持ちをたずさえて書いている。実際のところはきのう(六月二十五日・金曜日)の、高橋弘樹様の掲示板上のご投稿文にたいし、あらため御礼と感謝の意をたずさえている。同時に、一読の... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 身勝手に「悪しからず」 六月二十五日(金曜日)、夢遊病者に変りはてて、寝返りを繰り返しているうちに、寝坊していました。起き出してきてこれから、慌てふためいて朝の主婦業に入ります。それゆえに、休みます。またしても、かたじけない気持ちにとらわれています。 きょうは悪... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 身のほどの人生 私には絶えず文章のネタとなる、得意とする分野はなに一つない。加えて無から有を生ずる、文字どおり創作文を創(つく)ったり、紡(つむ)いだりする能力など、願っても夢まぼろしであり、現実にはありつけない。だから余計に日々の私は、この二つに憧憬と羨... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 沖縄県、戦没者「慰霊の日」 六月二十三日(水曜日)、きょうは毎年めぐって来る日本史上における哀しい日である。すなわち、日本国民であれば必ず、一年に一度は記憶を新たにしなければならない、沖縄県において営まれる戦没者追悼の『慰霊の日』である。追悼は文字どおり哀しみ表す、「... ひぐらしの記前田静良