学童の頃にあっては何かにおいて、「一日一善」を目標に掲げていた。すると、この目標は主に、家事手伝いで叶えていた。これには、子どもなりの魂胆があった。それを果たすと母ちゃんは、坊主頭をなでなでして、「とても、ありがたいばい!」と、言ってくれた。頭なでなでとこの言葉は、笑顔の母のご褒美だった。お腹や口に実益のあめ玉などではなくても、私にはうれしいご褒美だった。
妻の異変のことから発した余儀ないことではあるけれど、現在の私は、「一日多善」の実践中である。まるで、「肥後もっこす」の最後の砦みたいに守り続けてきた電気洗濯機の扱いも、今や妻の特訓を受けてお茶の子さいさいである。ベランダ干しも、真下の道路歩きの人たちの目には異様に映っていようが、もはや私には戸惑いや恥じらいなどみじんもない。ただただ、主婦業の大変さをいまさらながらに悟っている。もちろん、ご褒美はねだってはいないけれど、それでもやはり、痛々しい妻の口から洩れる「パパ、ありがと!」の言葉は、老いた体と心の励みになっている。
きょうは「節分」、夫婦相和し福豆をばらまいて、鬼退治を試みる。もちろん、いつもよりひどく、できれば木っ端みじんの鬼退治である。