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坂本弘司撮影

☆前田さんへ『大大大応援メッセージ』です☆

前田さん、今後は”複眼的思考法”で☆『ひぐらしの記』☆を執筆されたら、いかがでしょうか?

前田さんの生活が「表の世界」だとしましたら、奥様 お嬢様 あおばちゃん 御親戚の皆様 御友人の方々の生活が「裏の世界」という事になります。
前田さんの生活と同時進行的に「裏の世界」も時を刻んでいます。
「裏の世界」の事にも目を向けて、「今、あの人はこんな感じで生活している!」と想像でも具体的に考えてゆくと視野が拡がって行くのではないでしょうか。
食料品についても、ただお買い物をしてきただけです、ではなく、これはどこどこのお店で買って、激安だったので、たくさん購入して、夕食のメニューに使ってみた、ですとか、例えば、納豆でしたら、いろいろなメーカーから販売されていますが、前田さんでしたら、このメーカーがイチオシです! とか、お菓子についても、☆前田さんが好きなお菓子ベスト10☆とかお考えになられる、とさらに執筆する楽しさも増えてくるのではないでしょうか♪♪♪
要するに物事を表面的に捉えないで、1つの事でも深く掘り下げて具体的に考えて行く事だ、と思います!
それから、常識的な考え方だけにとらわれていても、視野が狭い結果になってしまう、と思いますので、常識外の考え方も必要だ、と思います。

ウラ社会について書かせていただきます。
最近、歌舞伎町の立ちんぼについて、大問題になっていますが、実は、隣り街の新大久保では、外国人(中国人や東南アジア系です)の立ちんぼが存在しています。
第1回目の潜入取材は、平成20年代前半に実施してみました。
この時は、友人に同行してもらったのですが、雨の日となってしまい、立ちんぼはいないだろう、と予想していたのですが、ナント!! 傘をさして、周辺をウロウロしていました。
決っして自分からは、ぼくたちに話しかけない、という方針を貫いているようでした。
令和の時代になり、歌舞伎町の日本人立ちんぼばかり取り上げられていますので、最近の新大久保の外国人(同です)立ちんぼ事情は、どうなっているのか知りたくなり、先日、第2回目の潜入取材を今度は単独で実施してみました!
50メートル位の長距離からぼくの姿を捉えると、じーーっと凝視してきて、最接近すると、手を振ってきて、日本語で誘ってきました。
ぼくは、誘いに乗る事はしませんでしたが(大笑)、こういった場合の断り方は、「お金持ってないから!」というのが1番です!
ついでにお手軽激安価格まで聞き出してしまいました!!(大笑)。
令和の時代の新大久保外国人立ちんぼは、平成時代と違って、積極的にアプローチしてくるのがよくわかった取材となりました。

極端な例をあげてしまい、たいへん申し訳ございませんでしたが、”表があれば裏もあるという考え方”=”複眼的思考法”の紹介をさせていただきました。

今回も前田さんへ☆大大大エール☆を贈ります(^o^)/(^o^)/(^o^)/(^o^)/(^o^)/(^o^)/(^o^)/

♪大沢先生へ『望月窯だより』の感想です♪

大沢先生、2泊3日の望月窯行き、たいへんお疲れさまでございました。
アジサイの画像は、山道に咲いているように見えて、鮮やかで素晴しくまさに☆ベストショット☆ですね☆
ヘチマの苗の生長も本当に楽しみですね(^^)
蔓が伸びた時のための、網塀も手作りのようで、大沢先生の意気込みが伝わってきています(^o^)/
ヘチマの花は、黄色で雄花と雌花があったと思いますが、『ヘチマタワシ』の完成が楽しみなところですね♪♪

望月窯だより

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六月二十五日から二十七日まで古河の実家に滞在した。初日は蒸し暑く作業はあまりはかどらなかったが、翌日は曇り日で涼しい風が吹き抜けていた。畑の野菜たちは順調に育って、食卓を飾ってくれるので、草取りも畑の手入れもやりがいがありはかどった。アジサイが見頃であり、クチナシの花も良い香りを漂わせていた。念願叶ってヘチマの苗を植えることが出来、まだ見もしない花を思い描いて「たわし」作りに思いをはせている。
 敷地内を歩いていると、あれもこれもと、やりたいことが浮かんで立ち止まっては「いけない、いけない」と作業の途中だったところへ舞い戻って苦笑いだ。疲れれば木陰のベンチに腰かけて一休み。元気で訪れることが出来て幸せを噛みしめた。

泣きべその夜明け

「前田さん。なんでもいいから書いてください」。大沢さまのご好意で書き始めた「ひぐらしの記」。この間、次兄をしんがりにすべての兄たちを亡くした。この世に、親、兄弟・姉妹のいない文章を書くのは、もうつらい。加えて、日々翳りゆくわが命と向き合って書くのも、つらい。カラスとて、自分の意思で生まれたわけではない。だけど、生きるためには「カアカア」と鳴いて、食べ物探しに必死である。この点では人間、とりわけ私自身もまた、カラスと同類項にある。なぜなら、諸物価、食品(食料)の値上がりの最中にあって、私も生きるための食べ物探しに必死である。もはや、人間の尊厳など、喪失状態にある。エンゲル係数だけがダダ上がる。わが日暮らしは、生きることだけに特化し、成り下がっている。なさけないと言うより、つくづく哀れである。ネタがなければ、継続のためには恥晒しなど厭わず、「ダジャレ文、何でも…」、書かなければならない。こんな文章を書く、なさけなさと惨めさが身に沁みている寝起きである(6月28日・金曜日)。心身に、気狂いの自覚症状はない。だけど、わが脳髄の司令で書く文章は狂っている。潮時を示す、アラーム音が鳴り響いている。梅雨空は、雨の夜明けをもたらしている。

血液検査報告書

6月26日(木曜日)。日常の倣いに従って、パソコンを起ち上げた。けれど、あえて書くネタも、気力もない。梅雨空にあって、朝日が輝き始めている。私は薬剤にすがって生きている。現在、最寄りのS医院から、ひと月ごとにもらっている薬剤は二つある。そして、期間を空けてその効果を知るために、血液検査を賜っている。これにともなうのは、老いの命を長らえるための馬鹿にできない医療費の多さである。医食同源と言うからできれば、無味乾燥の薬剤(錠剤)に替えて、美味しい食べ物で命を長らえたいと、願うところはある。しかしながら、通院すればそんなことは言えず私は、優しい先生の診立てと処方箋には逆らえない。現在、先日(6月14日)受けた血液検査の結果報告書を手にしている。それを見ながら、ネタ代わりを試みている。二つの薬剤の一つは腎改善のためのものであり、一つは悪玉コレステロールの改善のためである。検査報告書にあって前者は、クレアチニンの数値に示される。一方は、悪玉コレステロールの数値は、LDL項目に示される。さていつも、学童の頃の通知表と思って神妙にいただく検査報告書のそれぞれの数値はこうである。クレアニチン1.27(男性0.61から1.04)。LDLコレステロール142(男性70から139)。このところの検査にあっては、前者そのたびに少しずつ数値を下げている。後者はほぼ変わらずの状態が続いている。そのほかの数多の項目には、正常範囲を示す「星印」ばかりである。ゆえに先生から、「素晴らしいです」という、お褒めの言葉を戴いた。通知表にも満点は望めないから、確かに「良し」としなければならない。しかし一方では、血液検査の高点は必ずしも長生きに繋がるとは限らない。なぜなら、命の絶えの原因は、検査報告とはまったく別物である。なかんずく精神の病は、血液検査では皆無である。ところが私は、こちらの検査は恐ろしくて、ほったらかしにしたままである。朝御飯の支度前の制限時間が訪れた。だから、この文章はここで打ち切りである。あれれ、朝日は梅雨特有にさ迷っている。

危ない兆候

6月26日(水曜日)。のどかに曇り空の夜明けが訪れている。自然界の営みや季節のめぐりには、人間界とは違って疲労や苦労は無さそうである。たんたんと朝が来て、一定の時が過ぎれば夜になる。人間界はこうはいかない。人間界はこの間、絶えず様々な煩悩や煩悶に脅かされている。老年を生きる私の場合はなおさらである。きょう、いや現在、私は生きている。しかしあしたに、いや寸時この先の生存の保証はない。その主因は、取りすぎている老いの年齢のしでかしであろう。様にならない、こんなことは書きたくない。だけど、書いている。長すぎている、「ひぐらしの記」のしわざであろう。わが宝物の「ひぐらしの記」にたいし、罪をなすりつけたくはない。いや罪は、こんな心境をたずさえている私自身にある。人生行路の晩年を生きている私にとって、その証しの高年齢は、何かにつけて気力を奪う魔物である。なぜなら私は、常にそれに脅かされている。そして、このところは頓(とみ)に、気力の萎えに脅かされている。その現象には、日常生活のすべての物事に面倒くささをおぼえている。この先を生きるためには「危ない兆候」である。ところが、気力喪失の打ち止めは願えず、いやこの先、日々いっそう加速することは確かである。私は、大は生きることに、小は文章を書くことに、疲れている。そうであればどちらも、すぐに止めれば、すべてが解決である。しかしそうだと私は、確かな「生きる屍(しかばね)」となる。やはり、悶々は絶えない。こんな文章は、この先へ続ける値打ちはない。書かなければ恥を晒すこともない「ひぐらしの記」は、確かな潮時にある。朝日は照りはじめている。ウグイスは鳴いている。アジサイは彩(あや)なしている。私は草臥(くたび)れている。精神を捨て、身体だけの案山子(かかし)になればいいのかもしれない。

トウモロコシ売り場の顛末(てんまつ)

6月25日(火曜日)。梅雨の合間とは思えない、朝日輝く夜明けが訪れている。気象庁の梅雨入り宣言(6月21日)から間もないきのう(6月24日)は、心中で(もう梅雨明けかな…)と、呟くほど高温の陽射しに見舞われた。梅雨どきは、いつ雨になるかわからない。そのためきのうの私は、いつもの買い物の街・大船(鎌倉市)へ、勇み足で買い物へ出かけた。買い物を終えて、帰途に就いた。背中の大きなリュックは、「ダルマさん」さながらに膨らみ、限界までに重量を増していた。両手提げの布製の買い物袋は、これまた膨らみと重量で下がり、ときどき路面をこすった。そのたびに私は、慌てて引き上げた。代わりに汗が、額と首筋から路面に落ちた。売り場に並んでいたもので、神妙に出来具合を確かめたけれど、買いの手先を引っ込めたのがあった。それは、縦筋の緑の皮に覆われたトウモロコシである。結局、私は前歯の欠けを懸念し、買わずじまいだった。このことはすでに書いた記憶がある。それでも繰り返すとそれは、上の前歯中央の一つの欠損である。大好物の「井村屋の硬いアズキキャンデー」を噛んだおり、突然欠け落ちたのである。びっくり仰天、悔しさに唖然としたけれど、後の祭りだった。ところが痛みはなく、歯科嫌いのせいもあってその後は、ぽこリと穴を空けたままにほったらかしにしている。トウモロコシを手にしながら私は、しばし前歯の欠けに思案をめぐらしていた。挙句、買いの手先を引っ込めたのである。子どもの頃からこれまで、トウモロコシの食べ方は、前歯すがりのガジガジ齧(かじ)りである。この食べ方は、山から庭中へやってくる台湾リスとまったく同様である。上の前歯中央が穴ぽこであれば、もはやトウモロコシの齧りはできない。このことを決断して私は、未練を残しながらもその売り場から離れた。きょうの文章は、梅雨の合間のダジャレ文である。いや、老いの証し文でもある。朝日の輝きは、さ迷い始めている。

梅雨明けの「沖縄の悲しみ」

6月24日(月曜日)。いまだまったくの暗闇。寝床から起き出して来ると、窓辺に近づいて二重のカーテンと窓ガラスを開いた。雨はまったく降っていない。気象庁はきのう、沖縄県と鹿児島県の梅雨明けを宣言した。沖縄県では、太平洋戦争における沖縄戦にまつわる、悲しい「戦没者慰霊式」が行われていた。式模様を伝えるNHKテレビのナレーションに合わせて私は、しばし黙祷を捧げて、目玉に涙を溜めた。「沖縄ではこの戦いで、住民の四人に一人が死にました」。この声を耳にすると、溜めていた涙がこらえ切れずにポタリ落ちた。何ら、役立たずの涙が歯がゆかった。あれれ…、曇り空の夜明けが薄っすらと明け始めている。梅雨明けの沖縄の夜明けはたぶん、朝日輝く夏空であろう。79年前の沖縄は灼けつく夏空の下、抵抗という激戦を続けて、この日(1945年6月23日)に、力が尽きたのであろう。同じ九州地方の熊本県に生まれていた私は、翌月の7月15日に、5歳の誕生日を迎えていた。沖縄で生まれ住んでいれば、四分の一に数えられてわが命はない。だからと言って私には、「命拾い」をしたという思いはない。いや、こんな言葉や思いには罰が当たる。だからせめて、梅雨明けの沖縄の空に向かって、哀悼の心を馳せている。きょうは、書くつもりのこの先の文章は書き止めである。グダグダと書けば、わが心象が汚れそうだからである。命の悲しみには、風化や制限時間などあってはならない。

♪大沢先生へ『私の畑』の感想です♪

大沢先生、以前のぼくの投稿を引用してくださり、どうもありがとうございます。
今のところナゾの柑橘類の木とアゲハチョウの成長が楽しみなところですね♪♪

私の畑

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 ベランダの畑にある柑橘類の木は、ゴミの堆肥を作っていた頃、芽を出した苗であるが、葉の匂いを嗅ぐと強い柑橘類の匂いがする。でも、蜜柑なのかレモンなのか柚子なのか不明である。いつまでたっても花も咲かず、実も成らない。長いトゲだけは伸びている。危ないのではさみで切っているのだけれど、無くならない。その木には毎年アゲハチョウが卵を産み付ける。今年も四月の終わりに卵を一個見つけたけれど、いつの間にか姿を消していた。さっきベランダに出て、青々とみずみずしい葉を眺めていると、幼虫がへばりついていた。たった一匹だから、食料は十分だ。孵化→若齢幼虫(1齢・2齢・3齢・4齢)→終齢幼虫(5齢・緑色)→サナギ→成虫、と、この間、約1か月だと思いましたが、と掲示板に高橋さんの説明があった。今度は見失わないように観察しよう。