危ない兆候

6月26日(水曜日)。のどかに曇り空の夜明けが訪れている。自然界の営みや季節のめぐりには、人間界とは違って疲労や苦労は無さそうである。たんたんと朝が来て、一定の時が過ぎれば夜になる。人間界はこうはいかない。人間界はこの間、絶えず様々な煩悩や煩悶に脅かされている。老年を生きる私の場合はなおさらである。きょう、いや現在、私は生きている。しかしあしたに、いや寸時この先の生存の保証はない。その主因は、取りすぎている老いの年齢のしでかしであろう。様にならない、こんなことは書きたくない。だけど、書いている。長すぎている、「ひぐらしの記」のしわざであろう。わが宝物の「ひぐらしの記」にたいし、罪をなすりつけたくはない。いや罪は、こんな心境をたずさえている私自身にある。人生行路の晩年を生きている私にとって、その証しの高年齢は、何かにつけて気力を奪う魔物である。なぜなら私は、常にそれに脅かされている。そして、このところは頓(とみ)に、気力の萎えに脅かされている。その現象には、日常生活のすべての物事に面倒くささをおぼえている。この先を生きるためには「危ない兆候」である。ところが、気力喪失の打ち止めは願えず、いやこの先、日々いっそう加速することは確かである。私は、大は生きることに、小は文章を書くことに、疲れている。そうであればどちらも、すぐに止めれば、すべてが解決である。しかしそうだと私は、確かな「生きる屍(しかばね)」となる。やはり、悶々は絶えない。こんな文章は、この先へ続ける値打ちはない。書かなければ恥を晒すこともない「ひぐらしの記」は、確かな潮時にある。朝日は照りはじめている。ウグイスは鳴いている。アジサイは彩(あや)なしている。私は草臥(くたび)れている。精神を捨て、身体だけの案山子(かかし)になればいいのかもしれない。