ひぐらしの記 わが劣等の元凶は「脳髄」 この世に呱呱の声を上げて以降こんにちにいたるまで(83歳)、私はあらゆる面において劣等感情ではなく、正真正銘の劣等につき纏われている。二字の熟語に置き換えればそれは「生来」と言える。再び置き換えれば、「生まれつき」である。確かに、生まれつき... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 起き立ての下種の一念 1月22日(月曜日)、夜明け間近に起き出している。起き立てにあって未だ暗い中、一基の外灯の光を頼りに私は、カーテンと窓ガラスを開いて外を見た。霙や霰、雪も雨もない。寝起きの気分が落ち着く、静かな夜の佇まいである。前週末の二日にかけての降雪予... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 実のないごちゃまぜの文章 1月21日(日曜日)。きのうの「大寒」を過ぎて気象は、この先の春へ向けて、いよいよ「擂り鉢の底」を這い上がる。だけど、その歩みはチンタラチンタラであり、たったの一日の経過くらいでは、寒気の緩みは感じられない。寒気は未だ、大寒の中にある。気象... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 一枚の静かな雪景色の写真 1月20日(土曜日)。机上の卓上カレンダーには、「大寒」と添え書きがある。母が山芋を擂粉木で擂る擂り鉢の輪を私は、共に睨めっこしながら押さえていた。擂り鉢にたとえれば、大寒は文字どおり「寒気の底」である。おりしも、甲信越にとどまらず関東地方... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 他郷・能登半島に馳せる、わが思い 1月19日(金曜日)。起き立ての現在(5:09)、鎌倉地方は寒気が緩んでいる。これだけでも、極端に寒がりやの私には、棚ぼたに思えている僥倖である。しかしながら現在の私は、わが身にかかわる寒気の緩みばかりを望んではいない。いや、わが身は寒気に... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 わが終の棲家は、せつない 1月18日(木曜日)。嗚呼、わが身体には焼きが回っている。目覚めて二度寝にありつけず、仕方なく起き出している。寒気は緩んでいる。太陽は隠れているけれど、それでも味方している。震災被災地もこのところより、寒気は緩んでいるはずだ。そうあってほし... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」 1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 この冬一番の寒い朝、思いは石川県、能登半島へ駆けめぐる 1月16日(火曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の真っ暗闇にあって、5:01と刻まれている。起き立ての洗面にあって私は、いつものように水道の蛇口をひねり、身構えた。水に指先を当てると、冷たさで全身がブルった。水の冷たさから寒さは、こ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 人の命、わが命 日々ふと、わが年齢(83歳)を思はない日はない。思えばそのたびにぞっとする。いつ何時、どうこうしてわが命は、果てるのだろうか。今さら、果てることに恐れはない。ひたすら恐れることは、命の果てかたである。もんどりうって果てることだけは、まったく... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 冬の雨 1月14日(日曜日)。雨戸を閉めず、カーテンも掛けない前面の窓ガラスには、起き立てに外気を窺う役割がある。夜明けにあっては太陽(朝日)の匙加減にともなう、天気模様を知ることができる。ところが、夜明けの頃(6:15)にあっても、いまだ真っ暗闇... ひぐらしの記前田静良