歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」

 1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さは、今時(4:52)、どれほどのものであろうか。もちろんその寒さは、わが想像の埒外にある。
 スマホでは飽き足らず、パソコンで高音を響かせ覚えたてで歌った『金沢望郷歌』は、現在は悲しく、心中で声なく歌っている。日本全国に名勝を轟かせ、一方他郷では名を知らぬあちこちの名勝地を詩(うた)に織り込んだ曲は、聴くに耐え得る望郷の和みと切なさを奏でてくれる。それゆえにこの歌は、当該地の人たちならず他郷の人たちにさえ、望郷つのる愛唱歌となっているようである。
 石川県のほぼ全域が酷い震災に見舞われて、日々死亡者数の増加が伝えられてくる。こんなおり、取ってつけた如くあわてふためいて、この歌をハミングする私は、とんでもないバカ者である。確かに、平時に聴き、そして歌えば、こよなく望郷つのる愛唱歌である。しかし今は、哀愁帯びたセレナーデ(悲歌)を響かせる。
 きのう(1月16日・火曜日)の夕方、NHKテレビの普段の番組にあっては、突如けたたましくアラーム(警報)が鳴った。またもや、地震警報である。私はぞっとした。そして、私はすぐに安堵した。警報は石川県における発生(余震)を伝えていた。「私はすぐに安堵した」。この表現は私にかぎらず、人間の咄嗟の浅ましさであろう。恐怖感を緩めて私は、聞き耳を立てた。アナウンサーは職業柄特有に、いくらかわざとらしく恐怖感を煽り、早口大声で対応策を告げ出した。その多くはすばやく逃げるように繰り返した。またもや、わがへそ曲がりの心根が蠢いた。(被災地の人たち、とりわけ避難中の人たちは、逃げようないではないか)。すると、アナウンサーの声は恐怖のいや増しにすぎない。アナウンサーの声はまさしく、尋常が異常に変わるが地震の恐ろしさである。アナウンサーも伝えることに必死であり、もちろんありがたく思うこそすれ、煽りを責めることはできない。被災地や避難者は、恐怖に怯え、じっと成り行きを見守るしかできない。やがて、突如のアナウンサーの声は消えて、いつもの男女ひとりずつのアナウンサーの姿が現れて、番組は正規画面へ戻った。それでもわが心境は、かなり長い時間、平常心を失っていた。
 「能登半島地震」は、はからずも「阪神淡路大震災」をよみがえらせている。阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である。そして、再び繰り返すと発生時刻は、午前5時45分である。震源地は兵庫県南部と刻まれている。このときの私は、被災地における被災者のひとりに数えられていた。当時の私は、勤務する会社(エーザイ)の大阪支店(中央区淀屋橋)において、社業に就いていた。妻と娘は共に、アトピー性皮膚炎の治療中にあり、「かかりつけの医院がいい」ということで、転院を拒んだ。仕方なく私は、会社に対して規則破りの特別のはからいを願い出た。会社は特段の配慮してくれた。すなわちそれは、単身赴任の許可であった。勤務地は大阪市のど真ん中であったけれど、私は兵庫県尼崎市東園田町に住んだ。実際には会社が単身赴任者用に借り上げた、未だ真新しい5階建てのマンションだった。ここで私は、阪神淡路大震災に遭遇し、被災者に数えられたのである。
 会社にあっての私は、震災後の社員の安否確認や、当面の復旧作業に追われた。多くの社員は、兵庫県に住んでいた。私は被災地に住んではいたけれど、実際のところは被災者とは言えなかった。なぜなら、家財は散乱したけれど、身体は無傷だった。だから、震災体験者ではあるけれど、被災者の本当のつらさとは無縁である。それゆえにいっそう、能登半島地震の恐ろしさが身に沁みている。想像出来ない恐ろしさは、いまだ未体験のゆえであろう。
 「東日本大震災」(平成23年・2011年、3月11日午後46分)は、ふるさとへ帰省中のため逃れた。わが故郷「熊本地震」(平成28年・2016年、4月14日21時26分)は、テレビニュースに右往左往するだけだった。これらの地震を鑑みてもなぜか、このたびの能登半島地震の恐ろしさと、悲しさ、つらさがわが身を覆っている。なぜだろうか? それはやはり、この時期の日本海から吹きつける寒さが想像できないせいであろう。きのうに続いて、能登半島、金沢の街、あまねく石川県の天気と、寒さが気に懸かる夜明け前である。つらいつらいは、わが身ではない。