1月14日(日曜日)。雨戸を閉めず、カーテンも掛けない前面の窓ガラスには、起き立てに外気を窺う役割がある。夜明けにあっては太陽(朝日)の匙加減にともなう、天気模様を知ることができる。ところが、夜明けの頃(6:15)にあっても、いまだ真っ暗闇である。ゆえに、気に懸かる夜明け模様を知ることはできない。仕方なく私は、パソコンを起ち上げる前に、側近の窓ガラス開いて、直下の外灯の灯る路面を見遣った。おやおや、予期していた跳ね返る雨脚はない。雨の跡形の照り返る濡れもない。霙の後の恐れていた雪はもちろんのこと、小雨さえ降った様子はない。願ったり叶ったり。だけど、寝起きのわが心境は、なんだか狐につままれた面持ちである。
就寝前に玄関ドアをちょっぴり開けて、外を覗いてみた。すると、霙が降っていた。霙は雪に変わるのかな? それとも雪にはなり切れず、あとずさって雨になるのかな? (いやだな。寒いなな……)。私はトントンと二階へ上がり、共に分厚い毛布と冬布団の二枚を身体に重ねて、急いで寝床を作り潜った。身体が温まるまでは一切動かず、隙間風を断った。ようやく身体が温まり冷えていた気分が落ち着くと、こんなことを心中に浮かべていた。(冬の雨は、春雨、夏の日照り雨(狐の嫁入り)や夕立、そして秋雨などとは違って、なんらの詩心やロマン心など生まず、ただ冷たく寒いだけだな!)。
ここまで書いているうちに前面の窓ガラスには、はっきりと空模様が分かる夜明けが訪れている。夜明けの空は、太陽の恵みは今一つだけれど、それでも霙、雪模様、そして雨を蹴散らしてのどかな曇り空である。しかしながらわが身体は、寒さでぶるぶる震えている。この時期、寒気や冷気は仕方がない。なぜなら、季節の足取りは週末へ向かい、土曜日(20日)には、寒気の大底と言える「大寒」が訪れる。
このところの私は、休み続けていた怠け心を恨むかの如く向きになって、だらだらと長い文章を書いた。ただ、わずかに一週間余にすぎない。だけど、向きになっていたせいか、いやに心身が疲れている。確かにこの無茶な行為は、老齢の私には身の程知らずの無駄な抵抗であり、半面「年寄りの冷や水」とも言えるものだった。そのため、きょうの文章は尻切れトンボをも構わず、恥をさらけ出しても、疲れ癒しにここで結ぶこととする。身勝手を恥じてこの先は、しばし机上に頬杖をついて、ぶるぶる震えることとなる。駄文ゆえに表題は雨には縁なくも、いっとき心中に浮かんだ「冬の雨」でいいだろう。あれれ! 太陽は満天に日本晴れを恵んで、大空はキラキラと眩しく光っている。だらだら文は、また長すぎた。ひどく、疲れるかな?。