
坂本弘司撮影 八月二十九日(月曜日)、夜明けの空は朝日の光を強めている。天気予報は見ていないけれど、昼間には胸の透く天高い秋空になるだろう。きのうは、曇天と言うより雨空だった。このところは暑気が去って、早やてまわしの秋モードにある。もはや夏風邪とは言えないが、名残の夏風邪はいまだに治りきらず、鼻先ムズムズの不快感が尾を引いている。いつものことだけれど、「後悔、先に立たず」と「後の祭り」という、同意義の成句を抱き合わせて、浮かべるなさけなさである。風邪の兆しが現れたら市販の風邪薬には頼らず、掛かり医者の処方箋をたずさえて、行きつけの調剤薬局に行くべきだった。確かに、市販の薬は、効果覿面(てきめん)とはいかないところがある。反面、市販の薬には容易に買えて、買い置きもできる便利さがある。それゆえに、面倒くさがり屋の私は、ついつい市販の薬にすがっている。挙句、私は小さな夏風邪さえ長引かせる愚か者である。優柔不断すなわち決断力の不足は、わが生来の性癖(悪癖)の一つである。再び書くけれど、このところは秋風とともに、急に風の冷たさが身に沁みている。このためまずは、就寝にあっては掛布団が必需品になっている。さらに、肌身には重ね着が必要になってくる。おのずから夏の醍醐味は、遠のいて薄らぐばかりである。一方で、残暑の暑気の厳しさは知りすぎている。だとしたら欲張って、肌身に優しい季節変わりを願っている。さらに欲張って、台風の来ないさまざまな「冠の秋」の訪れを願っている。欲張りの私には、まだ欲張るものがある。それは、夏風邪の退散である。満天、日本晴れに変わっている。あれ! 鼻先のムズムズ感がとれている。「冠の秋」が来た。 八月二十八日(日曜日)、東京都下(国分寺市内在住)の次兄(92歳)伺いのため、朝駆けいたします。このため、文章はこれだけです。きのうの夕方は、妻の四回目のワクチン接種の引率同行でした。幸い妻は、痛みのない夜明けを迎えています。効果はわからず気休め程度です。接種会場は混雑しており、人みな生き続けるために必死です。それらを優しく支えてくださっていたのは、数多いスタッフです。人間のすばらしさを垣間見られて、私にはうれしいひとときでした。確かに、個々の人間はすばらしいです。ところが、党を組むとなさけなくなります。改めてこんなことを知り得て、私にはとても時間でした。 驚きました。今日は妻の四回目のモデルナワクチン接種のための引率です。こちらは夕方です。共に、無事を祈ります。 本日は四回目のワクチン接種の日である。午後一時四十五分から受付という通知を受け取っている。モデルナの副反応の心配と四回目接種ということで末の妹が用心して泊まりに来てくれるという。近くに居住しているとはいえ、つねに気遣ってくれていて、心強く感謝している。妹の口癖は、「お母さんがいつも言っていたのよ。きょうだい仲良くしてね」である。よほど母の言葉が心に残っているのだろう。そのお陰で、私は恩恵に浴している。 八月二十七日(土曜日)、きのうの夜明けのわが嘆きに報いてくれたのか、いくらか秋の夜明けを叶えている。それでも、夜明けに朝日の輝きはなく、二日続いて恨みを買わない程度の、いまだ八歩留まりである。だからなお、胸の透く秋の夜明けを願うことに変わりない。人の世は、人間だけでは成り立ち得ない。いや、多くは、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。すなわち人の世は、人間界と自然界の二人三脚で歩んでいる。もちろん、両者の足がもつれ、あるいは片方の足が崩れて、倒れること多しである。それでも二人三脚は、過去、現在、未来永劫にわたり、できるかぎり足をそろえて歩いて来て、この先はてしなく歩いて行く。目下、私は好季節にふさわしい秋の夜明けを望んでいる。具体的にはわが夏風邪治しは、薬剤の効果を凌いでさわやかな秋の夜明けにすがっている。現在、夜明けに呼応しわが夏風邪の治りも八分程度である。全天候型の夜明けと、つれてわが夏風邪の全快を望むところである。季節のめぐりには、春夏秋冬という区切りがある。それゆえに私は、せっかくの秋がぐずついて、早やてまわしに冬にでもなればもったいなく、おのずから焦燥感つのるものがある。ここまで時間をかけて書いても、まだ朝日の輝きはない。天高い夜明けの秋空は、もうしばらくであろうか。きのうは、いつもの大船(鎌倉市)街へ買い物に出かけた。コロナのせいでわが外出行動は、自粛すなわち自主規制のさ中にある。それでも最低、生存の糧(かて)すなわち、食料だけは買い置きしなければならない。やや浅ましい気持ちはするけれど結局、人間は「食べるために生きる」というより、背に腹は代えられず、「生きるために食べる」動物である。このことは売り場に立てば、人様の様子を凝視しながら実感できるところがある。われのみならず人様も、生きるための食料探しと品定めに躍起である。必ず食べなければならないものであれば、できるだけ長生きできる体に良いもの、さらには美味しいものを血眼(ちまなこ)になって探すのは、命ある者の定めである。そしてそれには、財布の中のお金の過多、この頃では電子マネーの過多の縛りがある。言うなれば売り場は、売る人と買う人、相まみえる生活戦場の様相である。この戦場を癒してくれるのは、海産物、農産物、加えて人工の食品である。海幸・山幸、秋にはサンマが話題にのぼり、さらには新米および山菜そして果物、総じて「実りの秋」満載である。「生きるために食べる」とはいえ、楽しい秋の訪れである。その先陣を切るのはやはり、さわやかな秋の夜明けである。だから私は、とことんこれにすがっている。指先ノロノロと時が過ぎて、大空日本晴れとなり、視界には澄明(ちょうめい)な朝日が輝き始めている。夏風邪の名残は、かなり遠のいている。 八月二十六日(金曜日)、さわやかな秋とは言えない、ぐずついた夜明けが訪れている。わが気分は、鬱状態である。気象のことはちんぷんかんぷんで、まったくわからない。ところが、わが気分の崩れはわかっている。それは二度寝にありつけないことが招く、煩悶のせいである。煩悶に苛(さいな)まれるのはなぜか。それもわかっちゃいるけれど、どうにもならない。なぜなら、わが人生行路にとりつく傷(いた)みだからである。文は人なり。大沢さまの文章は常に前向き。わが文章は常に後ろ向き。もとより、人間性と器の違いの証しである。創作分とは異なり「ひぐらしの記」は、わが日常生活をありのままに書いている。もちろん、文飾(ぶんしょく)のしようはなく、恥をさらけ出して書いている。もとより、恥をさらけ出すことには吝(やぶさ)かでない。なぜなら、恥さらしを怖がっていたのではネタなく、文章はすぐさま頓挫の憂き目を見ることとなる。いや、呻吟しながら書くのは、大損であり野暮でもある。だから、恥晒しなど知ったこっちゃない。確かに、恥晒しを恥と思えば、十五年も続くはずもない。「ひぐらしの記」と、ほぼ同時に誕生した孫のあおばは、現在中学三年生(十五歳)である。私は根っからのふるさと志向の塊である。ところが、わがふるさと生活は十八年にすぎない。これらのことをかんがみれば、おのずから「ひぐらしの記」の長さ浮き彫りとなる。すなわち、恥晒しを恥と思えば、書き続けられるはずもない長さである。もとより、六十(歳)の手習いは恥さらしである。ところが恥さらしは、「ひぐらしの記」継続の根源となっている。仕方なく、そう悟りきってはいる。それでも、さらけ出す恥の多さには辟易している。結局、二度寝にありつけない原因は、総じてわが人生行路から生じているさまざまな傷みである。だから、いのち尽きるまで修復のしようはなく、二度寝など望むべくもない。もっぱら泣き寝入りしか、眠る方法はないであろう。こんな実のないない文章であっても、十五年継続の足しにはなっている。もちろん、わがお里の知れる文章である。二度目の夏風邪は、まだ治り切っていない。憂鬱気分を晴らす、さわやかな秋の訪れを願っている。 八月二十二日から二泊三日で末の妹と古河市の実家を訪れた。毎年落葉の降り積もった屋根や樋、ベランダの落葉の清掃と建物の点検のため、建物を建ててくれた先代からお世話になっている建設会社に依頼している。今年も六月に依頼して記念館の屋根が傷んでいるので新しくしてもらうことにした。今回訪れた時、足場を組んであって、屋根屋さんが一人で仕事をしていた。この職人さんは、母屋を建てたときからの人である。炎天下に黙々と働いてくれていた。私も妹も負けじと草取りをした。休憩のたびに汗でずっしりと重くなった作業着を着替え、山のようになった洗濯物を洗った。 八月二十五日(木曜日)、「ひぐらしの記」は、わが生きている証しだから、起きてパソコンへ向かっている。しかしながら、書く気力は失せている。どう気張ってみても、おのずから命の終焉が近づいてせいであろう。きのうは、二度とはドジを踏まないつもりだった夏風邪をひいてしまい、気分が鬱になりずる休みをした。ところが、二度目の夏風邪はいまだに治りきらず、こんななさけない文章を書く羽目になっている。確かに、老いの身をかんがみれば、爽快な気分を望むのは、もはや欲張りなのであろう。ウイズ・コロナの表現を真似れば、わかこの先の人生は、ウイズ・老い耄れと言えそうである。すなわち、私は老い耄れの心身をたずさえて、日々生きる活動(生活)をしなければならない。もちろん、若い頃の幻想は捨てて、その覚悟はしている。実際には、老齢に見合う暮らし向きである。しかしながらこのことは、「言うは易く行うは難し」の典型である。だから、元気いっぱいとはいかなくとも、こんな泣き言の文章は書かずに済むくらいの、日常生活にはありつきたいものである。しかし、だれ(人様)にすがることはできず、要はわが精神力の賦活(克己心)に頼るしか便法はない。今の私は、こんななさけない文章を書いて、恥を掻いている。ただ、こんな文章でも二日続けてのずる休みを免れた益にはなる。いや、休んだほうがよかったのかもしれない。夜明けの空は、今にも雨が降りそうな曇り空である。世の中は、コロナと政治家の混迷ぶりでどんよりとしている。だから、夏風邪ひきに加えて、気分の晴れようはない。こんな気分、もうしばらくの我慢と言えようか。それともこの先、延々と続くのであろうか。季節は夏過ぎて、さわやかな秋の訪れで、わが気分直しと世直しを願うところである。ところが、夜明けの空は、もどかしく気迷っている。ならば、鳴き疲れている山の鳥と里のセミの声、つれて集く秋の虫たちの鳴き声に、わが気分直しと世直しを託してみたくなっている。 八月二十三日(火曜日)、このところの気候は、すっかり秋モードに変わっている。いよいよ、過ぎゆく夏を惜しんでの、悪あがきの残暑の候である。令和四年、高校野球夏の大会(阪神甲子園球場)は、宮城県代表校・仙台育英高校の初優勝(栄誉)で閉幕した。そしてこれには、優勝旗がかつての白河の関を越えて、東北勢としての初めての栄誉(栄冠)が刻まれた。それだけに宮城県にとどまらず東北各県人の喜びは、ひとしおだった。もちろん、私としてもその栄誉を、両手叩いて称えている。夏の高校野球は、真夏の風物詩として定着している。それゆえに決勝戦が終わると、一気に夏の終わりのゴングが鳴り響いてくる。もとより夏の大会は、学び舎の夏休み期間を利用して行われる。だから決勝戦が終わる頃は、高校にかぎらずそれぞれの学び舎の夏休みが終わる頃となる。すなわち、児童、生徒、学生には、寂しさ募るところである。加えて彼らは、今週あたりは夏休み中の宿題の仕上げに、てんてこ舞いであろう。今や学び舎とはまったく無縁の私であっても、夏の終わりにあっては、気もそぞろに寂しさ募るものがある。もちろん、今や宿題は免れている。しかしながら私は、宿題よりはるかにバカでかい、人生の課題に四苦八苦させられている。すなわち、早や秋風の吹く季節の速めぐり(感)は、日々いのちの縮む思いである。こういう思いをたずさえて、わが人生はなすすべなく閉じるのであろう。確かに、バタバタしてもどうしようもない、季節のめぐりである。だとしたら「ゆく夏を惜しむ」より、泰然と「くる秋を愉しむ」、心境にならないかと願うところである。しかしながらその願いは空念仏にすぎず、私は日々季節の速めぐり(感)に慄いている。生来、私はとことん損な性分である。仙台育英高校の凱旋帰郷および帰校は、きょうあたりであろうか。再び拍手して、わが気分を直したいものである。それより先に山の鳥は、朝っぱらから鳴きずくめで、わが気分を癒している。つくづくなさけないなあ……。 八月二十二日(月曜日)の夜明けにあって、すっかり夏風から秋風に変わっている。肌身の心地はそれなりに良いけれど、ちょっぴり心寂しさをおぼえている。確かに心寂しさは、秋の季節特有のものである。すると、この先の秋本番に向かって私は、どれほどわが身に堪える心寂しさに遭遇するであろうか。戦々恐々とするばかりである。季節は、夏の終わりから秋へまたぐ残暑の候にある。ところが、きのうは暑さが遠のいて、一日じゅう寒気をおぼえていた。その証しには、家中の網戸はすべて用無しに、窓ガラスに切り替えた。それでも妻は、「パパ。寒いわねー……」と言っては、厚手の毛布にくるまって、ソファに寝そべっていた。きのうの文章の表題は、『ゆく夏を惜しむ』とした。ぴったしカンカン私は、心からゆく夏を惜しんでいた。私の場合、夏が早々と姿を消すのはこりごりである。もうしばらく、夏の暑さを望むのは、へそ曲がりであろうか。確かに私は、生来のへそ曲がりではある。結局、願望した夏痩せはまったく叶わず、季節は「馬肥ゆる秋」へ先走っている。確かに、冠の秋には高尚な「芸術の秋」もある。しかしこれは、もとより私には用無しで、もっぱら「新米、果物、食べ放題」の餓鬼食いの秋である。確かに、暑い夏去って、涼しい秋の訪れは、それなりに楽しめるもの満載である。ただ、ちょっとだけ早すぎる季節変わりである。起き立ての殴りかきであっても文章は、私には手に負えない難物である。いまだ夏スタイルのわが身体を、秋風がブルブルと震わせている。
「冠の秋」が来た
人間
ぼくは、妻の引率
四回目のワクチン接種の日
秋の夜明けにすがる私
待ち焦がれる、さわやかな秋の訪れ
望月窯だより
翌日、建設会社の若社長が訪れて作業の途中経過を報告してくれた。
とにかくこの時期は、草の成長に追いつかず、綺麗に抜いても再び訪れた時には元の木阿弥状態だ。それでも懲りずにやれるのは、私も妹も健康で達成感を楽しめるからだ。
今年は、夏野菜の収穫もあり、ようやく二個成ったスイカが一つは収穫時期が過ぎて腐ってしまったけれど、一つはどうにか味見ができた。
訪れるとまず父母と弟、先祖代々の祀ってある神棚に向かって手を合わせ、感謝し、お守りくださいと祈る。帰宅するときは、「今回もよく働いたね。楽しかったね。ずいぶんすっきりとなったよ」などと語り合って帰路につく。望月窯は私と妹の心の拠り所になっている。二日続けてのずる休みを避けて、書いただけ
夏が終わる、ゴング
続、ゆく夏を惜しむ