秋の夜明けにすがる私

八月二十七日(土曜日)、きのうの夜明けのわが嘆きに報いてくれたのか、いくらか秋の夜明けを叶えている。それでも、夜明けに朝日の輝きはなく、二日続いて恨みを買わない程度の、いまだ八歩留まりである。だからなお、胸の透く秋の夜明けを願うことに変わりない。人の世は、人間だけでは成り立ち得ない。いや、多くは、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。すなわち人の世は、人間界と自然界の二人三脚で歩んでいる。もちろん、両者の足がもつれ、あるいは片方の足が崩れて、倒れること多しである。それでも二人三脚は、過去、現在、未来永劫にわたり、できるかぎり足をそろえて歩いて来て、この先はてしなく歩いて行く。目下、私は好季節にふさわしい秋の夜明けを望んでいる。具体的にはわが夏風邪治しは、薬剤の効果を凌いでさわやかな秋の夜明けにすがっている。現在、夜明けに呼応しわが夏風邪の治りも八分程度である。全天候型の夜明けと、つれてわが夏風邪の全快を望むところである。季節のめぐりには、春夏秋冬という区切りがある。それゆえに私は、せっかくの秋がぐずついて、早やてまわしに冬にでもなればもったいなく、おのずから焦燥感つのるものがある。ここまで時間をかけて書いても、まだ朝日の輝きはない。天高い夜明けの秋空は、もうしばらくであろうか。きのうは、いつもの大船(鎌倉市)街へ買い物に出かけた。コロナのせいでわが外出行動は、自粛すなわち自主規制のさ中にある。それでも最低、生存の糧(かて)すなわち、食料だけは買い置きしなければならない。やや浅ましい気持ちはするけれど結局、人間は「食べるために生きる」というより、背に腹は代えられず、「生きるために食べる」動物である。このことは売り場に立てば、人様の様子を凝視しながら実感できるところがある。われのみならず人様も、生きるための食料探しと品定めに躍起である。必ず食べなければならないものであれば、できるだけ長生きできる体に良いもの、さらには美味しいものを血眼(ちまなこ)になって探すのは、命ある者の定めである。そしてそれには、財布の中のお金の過多、この頃では電子マネーの過多の縛りがある。言うなれば売り場は、売る人と買う人、相まみえる生活戦場の様相である。この戦場を癒してくれるのは、海産物、農産物、加えて人工の食品である。海幸・山幸、秋にはサンマが話題にのぼり、さらには新米および山菜そして果物、総じて「実りの秋」満載である。「生きるために食べる」とはいえ、楽しい秋の訪れである。その先陣を切るのはやはり、さわやかな秋の夜明けである。だから私は、とことんこれにすがっている。指先ノロノロと時が過ぎて、大空日本晴れとなり、視界には澄明(ちょうめい)な朝日が輝き始めている。夏風邪の名残は、かなり遠のいている。