ひぐらしの記 台風、大過なく過ぎて…… 八月十四日(日曜日)、山の木々の吹き付けを恐れて、全部閉め切っていた雨戸を次々に開けた。眼下の道路は濡れて、山から落ちた木の葉が汚らしくべたついている。しかしそれは、普段の夜来の雨上がりの様子とまったく変わらない。無色の朝日が家並の壁にあた... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 お盆に朝焼け 八月十三日(土曜日)、目覚めたら部屋の中は色づいていた。びっくり仰天、跳ね起きた。家じゅうのすべてが、朱色に染まっていた。雨戸を開けっ放しの窓際にたたずんだ。大空いっぱい、視界いっぱい、見事な朝焼けが広がっていた。自然界の妙味というより驚異... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 立秋過ぎて…… 八月十二日(金曜日)、「立秋」(八月七日・日曜日)すでに過ぎて、夏の夜明けと朝は、秋色を帯びている。網戸から浮き抜けてくる風は、確かに熱をかなり冷やしている。明日は「八月盆」の入り日(十三日)である。送り日(十六日)が過ぎると、いまだに盛夏... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 私の「守り神」 八月十一日(木曜日)、真っ青な空に朝日輝く夜明けが訪れている。心の透く、典型的な夏の朝の風景である。わが心中には、確かな自然界の恵みが充満している。だからと言ってわが心中に、まったく陰りはないとは言えない。いや、大ありである。もちろんそれは... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 迷妄 八月十日(水曜日)。世の中にはコロナが蔓延し、私には自虐精神が蔓延し、共に勝てず、生活に疲れています。生活とは、文字どおり生きるための活動、すなわち日暮らしです。それゆえ、生活と日暮らしは同義語と言えます。生活ができなければ人間は、それっき... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 相身互い身、慰め合って連日の通院 八月九日(火曜日)。きのうに続いて連日、妻を引率の通院が予定されている。きょうの通院は、半年前の予約表にしたがって、「大船中央病院」(鎌倉市)への早出となる。きのうの通院は、住宅地内の最寄りのS医院であり、気分的には落ち着いていた。ところが... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 すべてにままならない、人生の終末期 語尾に「難民」を付ければ、実際に難民として苦しむ人たちにたいして無礼千万である。だからこの場合は、その言葉を控えたい。すると、これに代わる適当な言葉探しを始めている。ふと浮かんでいるもので、最も厳しいものには不可能がある。やや緩いものでは、... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 八月は気分の重たい月 八月七日(日曜日)、夜明けの空は、朝日の見えない曇り空である。このところは、こんな夏の夜明けが続いている。この二日は昼間でも、真夏とは思えない寒気を感じていた。この先は、真夏や盛夏という言葉に逆らい、「生煮えの夏」になるのであろうか。もちろ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 「広島、原爆の日」 令和4年(2022年)8月6日(土曜日)。77年前のこの日、この時間、(昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島市において、原爆が投下された。風化してはならず、忘れてはいけない、悲しい記憶である。この時の私は、生誕地・熊本県の... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 わが身に漂う閉塞感 八月五日(金曜日)。いまだ真っ暗い夜明け前、二度寝にありつけず起き出してきて、書くまでもないことを書き出している。わが文章は、「書いて、読んで」、気分の滅入るものばかりである。書けば、わが現在の生き様を映して、おのずからなさけない文章になる... ひぐらしの記前田静良