八月は気分の重たい月

 八月七日(日曜日)、夜明けの空は、朝日の見えない曇り空である。このところは、こんな夏の夜明けが続いている。この二日は昼間でも、真夏とは思えない寒気を感じていた。この先は、真夏や盛夏という言葉に逆らい、「生煮えの夏」になるのであろうか。もちろん、季節狂いは歓迎できない。しかし、いくらか望むところはある。
 道路を掃いていると、日増しに落ち葉が増えている。真夏にあっては炎天下、たぶん木の葉も生きづらいのであろう。木の葉は日照りに耐えきれずに枯れて、落ち葉と名を変えて、掃いている路上に野垂れ死にしている。憐憫の情が擡(もた)げてくる。いくつかを指先で拾ってみる。すると、枯葉とは言えないほどに瑞々しい生葉(なまは)もある。また、色のすがれた病葉(わくらば)もある。若死に病死、「まだ、生きたい!」と叫ぶも、叶わぬ人間模様の写し絵さながらである。だとしたら「鬼の目にも涙あり」、一瞬、私は掃く手を緩めたくなる。
 毎年八月、わが気分は重たい月である。それは今年で言えば七十七年前(昭和二十年・一九四五年)の日本の国における出来事、すなわち「広島、原爆の日」(六日)、「長崎、原爆の日」(九日)、そして「日本国、終戦(敗戦)の日」(十五日)が想起されてくるゆえんである。わが異母兄の一人は、フィリピン・レイテ島沖の戦場で命を絶った。わが次姉は、主治医に「戦争さえなければ、死ぬことはなかった」と、病床周りの家族に告げられて、薬剤が手に入らずに、若い命(十八歳)を盲腸炎で断った。これらに加えて、昨年の八月二十二日には、ふるさとの長兄がこの世から姿を消した。その妻(義姉)は、それより前の八月一日に亡くなった。私は甦る日本の国の出来事と、このところのわが身にまつわるつらい出来事を重ねて、きょうの文章を閉じることとする。
 私は為政者の定型の挨拶言葉、すなわち「哀悼の誠を捧げる」は白々しく、聞き飽きている。実際には言葉にできないほど、つらく悲しい出来事である。再び言う。私にとっての八月は、気分の重たい月である。そうであればわが命も兄姉に重ねて、できれば八月に尽きたい。なおできれば、枯れた木の葉にように、チラチラと静かに舞って…、野垂れ死にしたい。