ひぐらしの記 わが終の棲家は、せつない 1月18日(木曜日)。嗚呼、わが身体には焼きが回っている。目覚めて二度寝にありつけず、仕方なく起き出している。寒気は緩んでいる。太陽は隠れているけれど、それでも味方している。震災被災地もこのところより、寒気は緩んでいるはずだ。そうあってほし... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」 1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 この冬一番の寒い朝、思いは石川県、能登半島へ駆けめぐる 1月16日(火曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の真っ暗闇にあって、5:01と刻まれている。起き立ての洗面にあって私は、いつものように水道の蛇口をひねり、身構えた。水に指先を当てると、冷たさで全身がブルった。水の冷たさから寒さは、こ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 人の命、わが命 日々ふと、わが年齢(83歳)を思はない日はない。思えばそのたびにぞっとする。いつ何時、どうこうしてわが命は、果てるのだろうか。今さら、果てることに恐れはない。ひたすら恐れることは、命の果てかたである。もんどりうって果てることだけは、まったく... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 冬の雨 1月14日(日曜日)。雨戸を閉めず、カーテンも掛けない前面の窓ガラスには、起き立てに外気を窺う役割がある。夜明けにあっては太陽(朝日)の匙加減にともなう、天気模様を知ることができる。ところが、夜明けの頃(6:15)にあっても、いまだ真っ暗闇... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 人生行路は、岐路多い茨道 人生行路には、数々の大小の岐路が訪れる。大袈裟すぎて言い換えれば、日暮らしにあってもしょっちゅう、なんらかの岐路が訪れる。岐路とは文字どおり、本道から逸れる分かれ道である。実際には本道を歩いていて、岐路(分かれ道)に差しかかる場合が多い。分... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 空威張りの神仏 1月12日(金曜日)、新年も早や、中旬へめぐっている。春待つ心も老齢の身には、翳りと澱みをおぼえている。わが2か月余の怠け心を、カレンダー上の新年の「仕事始め」にことよせて捨て去り、私は再始動を試みている。そして、ヨロヨロと1週間(7日)繋... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 愛おしい、わが命 1月11日(木曜日)、夜明け間近にあって、私は生きている。眠気眼であっても、目覚めたことは善いことだ。私は、机上カレンダーをしばし眺めている。新年いや正月(1月)のカレンダーには、古来の催事や祭事、すなわち歳時(記)の添え書きが並んでいる。... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 中国、木村様からの航空便・年賀状 大陸と言おうか、異国と言おうか、ずばり中国からはるばる飛行機で、わが手に届いた葉書を眺めている。文面は何度も読み返している。葉書であるゆえに短い文章である。しかしながら、異国で書かれた文章はありがたく、かつ興味津々である。限られた狭いスペー... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 ああ、人間! 元日に起きた「能登半島地震」(石川県を中心に多大の被災)の惨状はあまりにも酷すぎて、日本国民の悲しみは極限状態にある。悲しみの癒えるめどは、未だにまったく無い。無情にも時は悲しみを置き去りにして、日々春へ向かって移りゆく。震災現場にはときに... ひぐらしの記前田静良