ひぐらしの記 この先、書けない 四月六日(火曜日)、寒のぶり返しに遭って気分が萎えている。人間は苦しむために生まれている。現在のわが心境である。 このところの私は、ウグイスの鳴き声と、庭中に飛来するコジュケイへの米粒のばらまきに癒されている。人の出会いの季節は、桜散る季... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 タケノコ、礼賛 予期しない悪夢による不快感には、腹立たしさがつのるばかりである。一方、私自身がしでかす不快感には、腹立たしさはお蔵入りである。それでも、浮かぶ四字熟語を用いれば、わがしでかす不快感は、自業自得(じごうじとく)とは言えそうである。 学童のだ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 悪夢 スヤスヤと眠れれば人間は、それだけでじゅうぶん幸福である。ところが私の場合、安眠に恵まれることなど滅多にない。それゆえに安眠にありついたときには、冒頭の感慨がメラメラと湧いてくる。 このところの私は、就寝中にあって悪夢に魘されている。挙句... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 自己慰安 太公望(釣師)は、水中や海中に釣り糸(多くは天蚕糸・テグス)を垂らして、水面や海面に浮く「浮き」を凝視し、引くあるいは当たりという、手ごたえを一心不乱に待っている。まさしく、青天白日の心境である。もちろん、文章を書くわが心境は、太公望とはま... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 無駄の効用 春の季節は足早にめぐりながら、三月を過去ページへと移して、月を替えて四月一日(木曜日)の夜明けが訪れている。日本社会の習わしで表現すれば、春三月・別れの儀式多い月から、春四月・出会いの儀式の多い月へのバトンタッチとなる。並(な)べて三月と四... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 暇つぶしとも言えない「切ない懺悔(ざんげ)」 定年退職後におけるあり余る自由時間の暇つぶしのための、余儀ない六十(歳)の手習いだったから、仕方ないところとは、常々承知していた。そのうえ、生来のわが凡愚が重なり、さまざまに難行苦行を強いられてきた。それでも私は、定年退職を間近にひかえて以... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 春の一日 三月二十九日(月曜日)、あえて書くまでもない、わがきょうの行動予定を記している。きょうは「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科における通院日である。ほぼ半年前にされている予約時間は、午前九時である。ところが、主治医の診察前に採血など、データ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 「ふるさと便」バトンリレー 三月二十八日(日曜日)、寂寥感つのる日々が、早回しで流れている。なんだかなあ……私には日数の短い二月より、三月のほうが早い日めくりに感じられている。ところがこの先は月・日を替えて、なおいっそうそう感じることとなろう。無事安寧の生存を強請(ね... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 私は「生きる屍(しかばね)」 世の中の人たちはみな、生き続けることに苦しんでいる。病魔が身体にとりついている人たちはたくさんいる。人災、すなわち突然の事故や事件に遭遇し、たちまち日常生活に難行苦行を強いられる人たちも数多である。これらに加えて、天災すなわち地震はもとより... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 「花より団子」 頃はよし、桜の花の満開の時季にある。しかし、私に花見や宴(うたげ)の気分は出なく、恨めしく時が流れていく。人生の終盤において、文字どおり人生の悲哀が訪れている。それに打ち勝つ気力を失して、きのうの私は、またもやずる休みに甘んじた。昼間にあっ... ひぐらしの記前田静良