3月9日(木曜日)。春は、半ばへ向かっている。摘み残っていた庭中のフキノトウは、文字どおりすでに臺(とう)が立っている。起きて、寒気は緩んでいる。心は、穏やかである。心身、縮むことなくのんびりとキーを叩いている。夜明け前に文章を書く私にとっては、寒さが遠のいたわが世の春の到来である。ところがこれは上部(うわべ)だけにすぎず、心中はそうではない。なぜなら文章のネタなく、しどろもどろの状態にある。文章の才無き私には、文章を書くことには絶えず「苦痛」がともなっている。苦痛の対義語は「快楽」である。文章を書く上で、快楽はあるであろうか。苦痛だけで快楽が無ければ、生来、三日坊主の私ゆえに、継続はあり得ない。ところが、曲がりなりにも継続が叶えられている。その理由には二つある。一つは、生涯学習に「語彙」のおさらいや新たな学びを掲げているからである。すると「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり、生涯学習の実践の場(機会)にあずかっている。ところがなさけないことに心中は、(止めたい、書けない)という苦痛の状態にある。この苦痛にわずかでも快楽を求めればそれは、文脈に適(かな)った語彙が浮かんだときである。滅多にないことだけれど、浮かんだときには確かに快感を覚えている。しかし、苦痛と快楽を天秤にかければ、苦痛はなはだ重く天秤棒はピョンと一方へ傾き、測定不可能となる。「苦痛と快楽」、言葉の学びだけの文章である。継続の足しにはなっている。しかし、快楽(感)は、まったく無し。日の出の早い、夜が明けている。