啓蟄

「啓蟄」(3月6日・月曜日)。きょうを境にして、地中で冬ごもりの虫たちは地上に這い出し始めるという。二十四節気の一つを為して、いよいよ本格的な春の到来である。虫けらも生き物であるかぎり、寒い冬を嫌って暖かい春を待ち望んでいたのであろう。このことでは人間と虫たち、分け隔てせずに共に、春の訪れを喜ぶべきである。ところが身勝手な私は、必ずしも啓蟄(けいちつ)をすんなりと喜んでいない。その理由は、わが「ぼろ家」に起因している。すなわちそれは、ゴキブリ、ムカデ、ヤモリ、アリ、そしてときには、ハチの舞い込みに脅かされるからである。庭中にはしょっちゅう、トカゲがうろついている。蛇のお出ましには、恐怖に怯えて目を凝らしている。春が来て恐れのない恵みは、山野の桜と野花、そして飛びっきりの春野菜の美味である。啓蟄にあってもしおらしいのは唯一、地中のミミズくらいである。一方、ちっともしおらしくないのは、草取りに手古摺る雑草の萌え出しである。しかしながらやはり、頃は良し「春はあけぼの」であり、文字どおり「春眠暁を覚えず」の季節の到来にある。ところが私の場合、この恩恵に見捨てられている。もとより、残念至極である。暁どころか真夜中に目覚めて、そののち二度寝にありつけず、悶々とするままに枕元の電子辞書を開いていた。そして、二度寝を拒んだのは、「鬼だ!」と決めつけて、腹立たしさ紛れに「鬼にかかわる」言葉を読み漁った。ますます、二度寝は遠のいた。【鬼】「穏(おに)で、姿が見えない意という」。多くの説明書きのなかで、ここで記すのは、「想像上の怪物」だけでいいだろう。怪物は、化け物と同義語でいいのかもしれない。なぜなら、怪物にしろ化け物にしろ、人間の心に悪さをすることでは同一である。確かに、姿は見えないけれど人間の心中を脅かす想像上の「鬼」は、まさしく悪の権化(ごんげ)である。それゆえか「鬼」は、漢字の部首の一つ、「鬼、きにょう」を為している。部首の説明書きは、こうである。「鬼を意符として、霊魂や超自然的なもの、その働きなどに関する文字ができている」。いや、私にはずばり魔物、すなわち悪魔、悪鬼、魔力などが連綿と浮かんで来る。睡魔とは、眠気を催すのを魔物の力にたとえて言う語である。私の場合、眠気を催すことには、ありがたいところもある。しかし、すぐに悪夢に魘(うな)されて目覚め、こののちは二度寝にありつけない。魘されて二度寝を拒むのも、字の成り立ちのごとく鬼の仕業であれば、懲らしめる姿が見えないだけに、もはやお手上げである。ネタ不足は行き着くところまで行き着いて、こんな実のない文章で、お茶を濁している。心中常に、赤鬼、青鬼、いるかぎり春の訪れを愉しことはできない。地中の虫たちは喜んでいても、もどかしい啓蟄の朝である。