掲示板

嗚呼、ああ…

きのうの夜更けは日を替えて、きょう(1月29日・月曜日)の夜明けへ向かっている。起き出して来て、パソコンを起ち上げた。デジタル時刻は、3:25と刻んでいる。机上のテイッシュを取り、鼻を噛んだ。一つ、咳が出た。季節は、確かな足取りで春へ向かっている。しかしまだ、寒気は緩むことなく、わが身体を脅かし続けている。さあさあ、何を書こうか。私には試練の時が訪れている。凡愚に生まれたゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに悩まされている。切ないルーチンである。パソコンを起ち上げさえしなければ、まだ寝床の中にいて、スヤスヤとはいかなくとも、こんな悩みは免れる。鼻汁のたれを嫌って、鼻を啜っている。鼻汁が溜まるとテイッシュを取り、鼻を噛んでいる。防寒冬重装備の分厚いダウンコートのポケットから、スマホを取り出して掲示板を開いた。この行為は、掲示上の現在のカウント数を見るためである。楽しくもあり、切なさもある、わが日課である。よしよし、望んでいる以上のカウント数を刻んでいる。これから、きょうの数値がスタートする。拙い文章の連続だから毛頭、欲はかけない。ご常連の人たちには詫びて、ひたすら感謝するだけである。二か月余の空白ののち私は、カレンダー上の「仕事始め」を機に再始動を試みている。みずからに鞭打ち、みずからを鼓舞し、それゆえかなり力んで書いてきた。幸いにも、きょうまで途切れることなく続いている。一方、もはや息切れ寸前にある。くだらないこの文章がその証しである。文章にかぎらず、83歳のわが身には、「あしたまたね!」という、言葉は存在しない。ここまでは、ネタを引き出す序章である。ところが、長々とここまで書いても、未だにネタが浮かんでこない。それゆえに今のわが心境は、焼けのやんぱちに陥っている。恥も外聞もなく、何かを書こうと決意する。すると、浮かんだのはこのことである。書き殴りの「ひぐらしの記」はあとで、大沢さまのご厚意で製本(単行本)に編まれてくる。その前に私には、うれしさとかなしさ、相同居する校正作業がある。同居する作業とは言え、うれしさは無限大であり、かなしさは限られている。悲しさは、わが文章の拙さと誤りから生じている。ところが、ときにはこんな喜びに遭遇する。(ここのところは、六十歳の手習いにしては、良く書けているかな!)、すなわち、独り善がりのわずかな自惚れである。私は、行きつけの歯医者には予約時間の前に着く。そこには待合室がある。診察券を所定のところへ置くと、やおらソファに腰を下ろす。この先は待ち時間である。ソファの前の小さな卓上には、いくつかの雑誌類や単行本が置かれている。私はこれらの中から、決まって一冊の単行本を取る。そして、診察室から「前田さん、お入りください」と、呼ばれるまで、文章の拾い読みをする。この間は、わずかな時間である。歯医者にかぎらず病医院の待ち時間は、短いほどありがたいものだ。表題に釣られて手にするのは、単行本『九十歳。何がめでたい』(作者佐藤愛子)である。佐藤さんご本人は名だたる作家であり、亡きサトウハチローさんの異母妹でもある。直近の「ひぐらしの記89集」の校正作業をしていると、(あれこのところは佐藤さんの文章に似ているな)と、感じたところがった。疲れ癒しのちょっぴりいい気分になった。挙句には自惚れてみたくなった。「九十歳、何がめでたい」、表題からして文章は、かなり皮肉めいて書かれている。すると文章の共通項には、わが生来のマイナス思考に加えて、へそ曲がりと天邪鬼精神が起因していただけだったのである。こんな馬鹿げたことにでもときには遭遇しないと、わが未熟な文章の校正作業は、そのたびに疲労困憊に陥るばかりである。きょうのこの文章が悪の根源となり、この先のカウント数は漸減傾向を招くかもしれない。ここまで書くあいだ、私は何度机上のテイッシュ箱に手を伸ばしたであろうか。デジタル時刻は、夜明けまだ遠い4:58と刻んでいる。こんな文章は、鼻水を溜めて、何度も鼻を噛んでまでして、書かなきゃよかったのかもしれない。だから、ご常連の人たちには、「ご勘弁な、許してください!」と、声なき声で言って、文章を閉じることとなる。駄文なのに懲りずに、またまた長すぎた。いや、懲りて、あしたは書かないほうが身のためかもしれない。テイッシュが間に合わず、鼻水がポトリ落ちた。何度か、咳が出た。

ゴミネタの祟り

1月28日(日曜日)。いまだ真夜中と言っていい時(2:29)の寒気は、わが心身を脅かしとりわけ身体に沁みる。文章を書く私にとってネタ(題材)は、車や動力のエンジン同然である。エンジンが壊れると機械物は、もとよりにっちもさっちもいかない。同様にわが文章は、とうにネタ切れを起こしている。それゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに真っ暗闇の中で、ネタ探しに狂奔している。挙句、探しあぐねて私は、右往左往をするなかでどうにか、ゴミみたいなネタを拾っている。すなわちこの文章は、ゴミネタである。不断の私は、自然界現象(自然界賛歌)、著しいところがある。しかしながら、地震、雷、竜巻、これらに強いて加えて大嵐は、もとより自然界賛歌の埒外にある。言うなればこれらは、人間界にとってはまったく益なしの魔物である。大雪、大雨、大風なども確かに、度を越せば人間界に悪さをする。ながら、魔物とは大違いであり、これらは小悪魔呼ばわりくらいでいいのかもしれない。いややはり、これらのもたらす災害もまた甚大である。一方で、度を過ぎない雪、雨、そして風は、人間界にはかり知れない便益、とりわけ風景をもたらしてくれる。ただ、風のもたらす便益と風景は、雪と雨には敵わないところがある。ところが風とて、風車を回しては人間界に原発に頼らないエネルギーを産んでいる。風は木の葉や花びらには悪さをするけれど、そよ風のもたらす様々な風景は、眺めるだけで私に眼福を恵んでいる。度を越さない雪は雪景色を恵み、一方適度の雨は農作物に潤いを与えて、人間界に食べ物を恵んでいる。地震、雷、竜巻、大風(大嵐)さえなければ、春へ向かってわが自然界賛歌はいや増すばかりである。雨戸を開ければとうに、庭中に立つ梅の木には花が綻びはじめている。庭中のフキノトウは芽だし始めている。庭中の雑草はのちにはわが手を焼かせるけれど、芽吹き初めのこの時期には健気さがあり、いたずらに踏みにじることには気が留める。茶の間のソファに背凭れていると、窓ガラスを通して早々と、わが心が和む光景に遭遇した。これまた庭中に立つ寒椿は、わが世の春と謳うかのように花びらの色の濃くし、さらに花蘂(かずい)には甘い蜜をいっぱい溜め込んでいる。すると、山から番のメジロが飛んで来て、今にも落っこちそうにバタバタしながら、仰向けで蜜吸いに懸命である。しばし眺めている私には、心が和んで郷愁や童心がよみがえる。ひととき、自然界賛歌の極みである。田畑には、大団円さながらに春野菜が育ち始めている。山には山菜が芽吹き、野には菜の花、ノビル、スカンポ、ツクシンボが萌えてくる。川岸にはすでに、ヨモギやセリが緑色を濃くしている。どれもこれもがわが自然界賛歌における脇役、いやその他大勢の役割を十分に担っている。しかし、先日の買い物において私は、一瞬目を逸らしたくなるような人間界の浅ましさに遭遇したのである。売り場には小箱に入ったフキノトウが並んでいた。ところが小箱の中のフキノトウは、わが庭中で見る瑞々しい艶を失くしていた。まもなく、菜の花も売り場へ現れる。人間界の食欲という浅ましさは今や、山菜や野の花あるいは草花さえ相たずさえて、野菜のように促成されつつある。これらにとどまらず人間界の浅ましさは、肉屋でしばし佇みガラス越しに眺めればその極みにある。魚屋へ足を運べばまた、人間界の浅ましさはまた同然である。こうまでしても人間は、浅ましく生き続けなければならない。浅ましさは、人間につきまわる業(ごう)であろう。この罪滅ぼしに私の場合は、おのずから自然界賛歌である。だけど、人間界に悪さだけをする地震、雷、竜巻、そして大嵐は、わが自然界賛歌の埒外にある。いたずらに長いばかりのゴミネタで、骨格のない文章は、夜を徹して書いてもまったく味気ない。それゆえに私は、ご常連の人たちにたいしては、ひたすら詫びるばかりである(3:39)。草臥れ損なのか、寒気で身体は冷え切っている。

♪前田さんへメッセージです♪

エンターテイメント以外の文章に関しては、「ある意味、読者を無視しても良い!!」という法則のようなものが存在しています。
本日の『ひぐらしの記』は、”前田さんだけが書ける内容の文章=前田さんの個性ある文章”となっております。
マイナス思考に陥ったら、”いかに自分らしい自分だけしか書けない文章が書けるか=前田さんの個性がいかんなく発揮できる文章が書けるか”をお考えになるのが第1番だと思います。

究極のマイナス思考

こんな文章では、身内、親戚、そして親しい友人、知人であっても、「読んでみて」と、誘えないのがつらい。

「死期と死に方」、気になる死に方

1月27日(土曜日)、現在の時は、日を替えたばかりの頃にある。このところの書き殴りの長文を真摯に詫びて、今の私は、心して短い文章を書く心づもりをたずさえている。きのうは月に一度の補聴器の定期調整のために、はるばる神奈川県横須賀市内の大津町まで出向いた。高価な買い物のため、まるで車検みたいなものだな! と思って、私は渋々出かけた。遠いところで買ったことでは、今なお私は、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはなれていない。いや、横須賀市内に住む娘に拿捕されて、無理矢理娘の行きつけの店(眼鏡市場)へ連れて行かれた思いに苛まれている。娘の勝手な言い分はこうである。「こうでもしないかぎり、頑固な父親(肥後もっこす)は安価な集音器で我慢して、よく聞こえる補聴器に買い替えない。だからわたしには、父親思いの優しさがある」。だけど、わが思いは、娘の騙し討ちに遭ったようなものである。もちろん連れて行っただけで、娘が買ってくれたわけではない。高価の支払には、日々細り続けるわが身銭をはたいたのである。高価な補聴器は、わが残余の命にどれほど貢献できるだろうか。元が取れるだろうか。実際のところはこの先わが命短く、銭失いになりそうである。娘が読んだら目を剥きそうな、書くまでもないことを書いた。ここらあたりで止めないと、また長文になりそうである。くわばら、くわばら…。だからこの先は、きょうの主題に切り替えて書くけれど、愉快なネタではない。絶命は人間であるかぎりすべてに訪れ、かつ老少不定のさだめにある。絶命にはだれしも、抗うことはできない。そしてだれしも、「死期と死に方」を気に懸ける。とりわけ、小心者の私は心中、日々こんな思いを浮かべている。(死期の訪れは仕方がない。だけど、死に方が気になる)。もちろん、浮かべてどうなることでもない。だから、なさけない無駄な想念であることとは知りすぎている。そのうえこの思いはわが身だけではとどまらず、茶の間でひねもす相対する妻へもふりかかる。おととい(1月25日・木曜日)書いた文章、すなわち『消えゆく同期入社の仲間』にあっては、同期入社のひとりの訃報のことを書いた。前に届いていたふるさと情報では、生まれてこの方までの友人、渕上喜久雄君の訃報を知った。そして、日を替えたばかりの先ほどには、スマホメールでまた新たな訃報が届いた。それは大学時代において、7人の親友グループを成す中の、ひとりの訃報だった。枯葉が道路に落ちるのを掃くのはわが日課である。所を変えて時を変えて、仲間と親友の命がまるで、枯葉のごとくに落ちてくる。わが身には、残る者の寂しさと侘しさがつのるばかりである。死期はともかく、私はどんな死に方をするだろうか。私は浮かべても、どうなることでもないことを浮かべている。補聴器と入れ歯を外した。寝床に入っても、当分寝付けそうにない。もちろん、寒気のせいではない。

予告の降雪予報の採点

1月26日(金曜日)、起き立て(4:27)にあって私は、こんな想念を浮かべている。冒頭から記しているけれど、きょうの文章にあっては、付け足しの番外編にすぎない。寒気はすでに過ぎた「大寒」(1月20日)を底にして、春へ向かって擂り鉢の底を這い上がるどころか逆に、なお奥の大底を探るかのような無茶苦茶ぶりである。しかしながら私は、(バカにするな!)と声なき声で、寒気を懲らしめることはできない。いや私には、暴れん坊のなすがままに、じっと耐えるしか能がない。さて、掲示板上に書いているわが文章は、行替えのない書き殴りである。このため、ご好意で読んでくださる人たちには、きわめて読みづらいものである。これには、こんな理由がる。掲示板の文章は、大沢さまのご厚意に授かりのちには、まずは「ひぐらしの記」のブログに、こちらは行替えをされて移記される。そして次には、これまた大沢さまにはさらなるご面倒をおかけして、栄えある製本(単行本)へ編んでくださっている。この間には私は、大沢さまからり「行替えなしがし易い」という、サゼスション(示唆)を賜っている。もとより私は、この示唆に逆らうことはできない。なぜなら、起き立てに書き殴るわが文章はいずれ、わが生来の夢のまた夢、すなわち壮丁奇麗な「単行本」へと、なり替わるのである。もちろん叶わなぬことだけれど、こんな僥倖にありついていることを草葉の陰の父と母が知れば、私をしっかり抱いて喜ぶこと請け合いである。しかしながら一方、ご好意で掲示板を覗いてくださるご常連の方々には、読みづらい書き殴りにすぎない。ところが、きのうの私は、読みづらさの典型とも言える、長文をだらだらと書いてしまった。400字詰めの原稿用紙にすれば5枚強(2000字を超える)の長さだったのである。きょうの私は、まずはこの無礼を詫びる心づもりをたずさえていた。ところがあにはからんや! きょうの文章もまた、きのうの二の舞になりかけている。きのうの私は、まったく久しぶりに掲示板上のカウント数をメモした。その理由には二か月余の空白のせいで、自業自得とはいえカウント数は激減をこうむっているはずだと、思っていたからである。ところが幸いなるかな! カウント数の激減はまのがれて、いやそれどころか思いがけない数を数えたのである。だからこのことにはひれ伏して、ご常連のかたがたにたいし、感謝と御礼を記すものである。またな長々と書いて、読みづらい文章になりかけている。ゆえに、ここらで結文にするのが本当の詫び心であろう。しかしながら、予告していたこのたびの降雪予報の結末を素通りしては、わが身は廃りさらには「噓つきカモメ」に成り下がる。それを避けるために私は、降雪予報の当たり外れ、すなわち採点を試みる。先回の降雪予報は、追試に耐えないほどの赤点丸出しだった。しかし、降雪予報は外れてこそ、歓迎すべきところがあるから厄介であり、別物の予報とも言えるところがある。外れてももちろん、気象庁や気象予報士への非難は埒外にある。さて、このたびの降雪予報にたいするわが評価は、気象庁や気象予報士にたいしてはかろうじて合格である。能登半島を中心とする震災被災地における降雪予報は、幸いなるかな! 赤点すれすれだった。ところが、赤点を補って合格点へ持ち上げたものには、これら二つの雪降り情景三つほどの雪降り情景がある。必ずしも降雪予報どおりの日本海添いの地方ではなかったけれど、一つには名神高速・関ケ原インターチエンジ道路(岐阜県関ケ原町)付近における5キロに及ぶ車の立ち往生情景があった。二つ目には滋賀県米原市における、多雪からもたらされた人々の難渋ぶりの情景があった。これら二つは、NHKテレビニュースの映像から観た雪降り情景である。三つめは、思いがけないふるさとの雪降り情景であった。こちらはテレビ映像には現れなかったけれど、ふるさとの生家を守る、亡き長兄の後継者(長男)の妻からのLINE送りによる三枚写真と、平洋子様からの掲示板上へのご投稿文によるものだった。能登半島を中心とする震災被災地の降雪予報が、いくらか外れたことで合格点とはいえ、赤点すれすれだったことでは、私には気象庁と気象予報士をなじるつもりはさらさらない。雪模様のない、あさぼらけが訪れている。しかし、寒気が身に沁みる。

消えゆく同期入社の仲間

1月25日(木曜日)。現在は、真夜中あたりにある。日常生活におけるごく身近なところで、食品には「賞味期限」と「消費期限」が表示されている。一方、これまた身近なところで、医薬品や医薬部外品には「使用期限」が表示されている。双方共に私は、スーパーなどでの買い物のおりや、はたまた調剤薬局でもらうときなど、あるいはドラッグストアで買うときには、これらの表示は気にしない。ところがまた双方共に私は、こんなときにはかなり、それぞれの期限表示を気に懸けている。すなわち食品の場合は、食べる前には賞味期限と消費期限を確かめている。薬品の場合は、これまた使用期限を確かめている。もちろん、「残り物には福がある」からではない。買い置きや、もらい置き、すなわち在庫があるからである。共に、「残り物には害がありそうで」、期限切れが気になるからである。だからと言ってケチな私は、とことんこれらの表示にこだわってはいない。もとより薬品ではしないけれど、食品の場合は期限切れであっても、ムシャムシャと食べている。それでもこれまでのところは、食中毒は免れている。閑話休題。きのう(1月24日・水曜日)には突然、同期入社のYさんから電話を戴いた。用件は、同期入社のひとりであるTさん(83歳)の訃報を知らせてくれるものだった。顧みれば同期入社の数は、大卒にかぎれば50数名だったように思う。電話のやり取りの中でYさんは、「みんな亡くなっていくよ。残っている人はもうあまりいないね。それらの中で元気な人は、渡部さんと前田さんのふたりくらいだね。前田さんは相変わらず元気でしょ?…」「Yさんからは、早々に年賀状をもらってありがとう。ぼくは書かずじまいで、後出しになり、ごめんね。そう元気でもないけれど、今、卓球クラブの練習から帰ってきたばかりです。Yさんは、元気そうですね!」「いやいや、前田さんも知ってのとおり、たくさんの病で苦しんでいますよ。前田さんは、まだ、卓球やっているの? 元気じゃないの…」「ほんとに、渡部さんはとても元気です。渡部さんとはぼくの文章書きや、Yさんも知っていると思うけれど、渡部さんの郵便局回りなどをとおして、日々交流があります。いやぼくは、渡部さんにはすごく助けられています」「前田さんはまだ文章を書いているの? 自分も教えてもらって以降、読んでいたけれど、途中からどこに書いているのかわからなくなり、もう書いてはいないんだなと思って、そのあとは読んでいないよ」「そう、ありがとう。だけどもう、読まなくていいよ。とぎれとぎれになりかけているから…」渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)は、「ひぐらしの記」や掲示板ではすでにお馴染みなので実名を用いた。いや、実名で書かずにはおれなかった。渡部さんはわが文章が途絶えるたびにパソコンメールで、こんな激励メッセージを送信してくださっている。「前田さん。このところ文章を見ないけど、どうかしているの? 毎朝、君の文章を読むは、自分の楽しみのひとつです」渡部さんは同期入社の誼(よしみ)をはるかに超えて、人間味いや人間の優しさがあふれて、わが崇敬するひとである。もちろんこのことは渡部さんの優しさの番外に位置しているけれど、渡部さんには「ひぐらしの記」にあっては、創刊号から発行されたばかりの直近の第89集にいたるまでのすべてを、有料購入にあずかっている。だからこれまた、渡部さんにかかわる、書かずにおれないことの一つである。現下の渡部さんは、首都圏(東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県)にある、大小すべての郵便局をまるで、しらみつぶしのごとくに訪ね歩かれている。驚くことなかれ! 渡部さんは、わが住宅地にある個人商店みたいなちっぽけな郵便局にさえすでに訪れ済である。そして現在は、ひときわ広域自治体である千葉県を日々、はるばる所沢市から回れている。Yさんが言う「元気な人は渡部さんと前田さんのふたり」とは、実際のところ私の場合は、渡部さんの足下にも及ばないものである。賞味期限や消費期限、いや命だから使用期限が妥当と思えるけれど、わが命はとうに使用期限切れにある。Yさんの誉め言葉にはうれしいと言うより私は、同期入社の仲間が消えゆくことぞっとした。こののちの私は、Yさんからの電話のことを伝えたくて、渡部さん御宅の固定電話の呼び鈴を鳴らした。ところがあいにく、呼び鈴は鳴りっぱなしのままで、肝心の渡部さんを呼び出してはくれなかった。たぶん渡部さんは、千葉県の九十九里浜海岸沿いの小さな郵便局回りをされていたのかもしれない。きのうの関東地方は、雪こそ降らずじまいだったけれど、身に沁みる寒さだった。わがふるさとのきのうの雪景色風景は、亡き長兄の後継者(長男)の妻から、三枚の写真付きでLINEで送られてきた。そして、とどめのふるさとの雪降り情景は、平洋子様から賜ったのである。この文章はとっくに使用期限が過ぎたわが命を惜しんでだらだらと書いた、エンドレスになりかけの長文である。さむいなあ…。日本列島のあちこち、やたらと雪が降っている。あしたは降雪予報の結末を書くことになるかもしれない。

平洋子様、感謝申し上げます。

雪のふるさと情報、ありがとうございました。加えて、わが恩師、お義母様のつつがないご近況のお知らせを賜り、お礼を申し上げます。春はまだ遠いようです。ご自愛くださいませ。

雪が降りました

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 寒い夜が明けたと思ったら、一面の銀世界でした!
 暖冬の日々でしたので、早い春が来るのかなと思っていたのでビックリでした。

 前田様、大沢様『ひぐらしの記』ありがとうございました。次の面会時に義母に届けようと思います。
 年末年始は慌ただしいことが続き、やっと落ち着きを取りもどしました。今冬は冬らしくない暖かさが続いたことで雑草(?)がはびこりそろそろ草取りかなと思っています(笑)。
 まだ一月なのにお正月はずっと前のような気がしています。家族一同変わりの無い新年を迎えました。先週には長野にいる弟の帰省に合わせて義母の一時帰宅がかない、妹夫婦も集まって久しぶりに親子団欒ができました。コロナ禍でなかなか会うことができなかったので、本当に話の尽きない一日でした。
 今年は後期高齢者の仲間入りで、運転免許の更新が面倒になりました。高齢者講習に加え、「認知機能検査」を受けなければなりません。更新に備え、ドリルで勉強するようにと夫がテキストを買ってきてくれました。何十年ぶりの試験勉強です!
 
  

気に懸かる、再びの降雪予報(震災被災地)

1月24日(水曜日)。私はいつもの習わしにしたがってパソコンを起ち上げると、すばやくメデイアが伝えるニュース項目の一覧を瞥見した。ほかのニュースは、ニュース内容(本文)までを読むことはなかった。ところが、後段に記す一点のニュース(引用文)は本文を開いて、恐怖感をつのらせて目を凝らして読んだ。きょうはわが文章にあらずして、ニュース項目からの引用である。だからと言って、疲れ癒しにお茶を濁しているわけではない。いやいや、震災被災地にからむ降雪予報であれば他人事ではなく、私は気に留めずにはおれなかった。すなわち私は、北陸地方(石川県、富山県、福井県)、中でも石川県を中心とする震災被災地における降雪予報(降雪と積雪)を甚く慮ったのである。先回の降雪予報はおおかた外れて、大過なくすぎた。それゆえに天邪鬼の私は、外れたことがうれしくてそののち、いくらかからかいの文章を書いた。それは気象予報にかかわることや、もっとあからさまに気象予報士の職業にたいし、かなり皮肉めいた文章だった。できれば今回もまた、明後日(1月26日・金曜日)の文章では、降雪予報の外れを喜ぶ文章を書きたいものである。そして、幸いにも今回また外れれば、こんどは気象予報士に留まらず、いっそう皮肉まじりに気象庁を称えたり、詰ったりする文章を書きたいものである。なぜなら気象庁は、今回の降雪予報においては「災害級の警報」と言って打ち鳴らし、すでに国土庁と相並んで事前の記者会見を開いて、大いなる注意を呼び掛けている。日本地図をもとに東から北から、かつ西から南にかけて、帯び長く日本海側に存在する自治体に色塗られた降雪予報には、石川県あたりに飛びっきり濃い色が塗られていた。このことこそ、今回の降雪予報にたいし、私が震え怯えている「大本」である。さて、以下は「ウエザーマップ」が報じる引用文のあらましである。【日本海側中心に 25日(木)にかけて大雪・高波に警戒 太平洋側の平地でも積雪のおそれ】(1/23・火曜日、18:05配信)。「25日(木)にかけて、東日本から西日本の日本海側を中心に大雪となる所がある見込み。大雪や路面の凍結による交通障害に警戒が必要だ。北日本や北陸は、高波にも警戒が必要となる。また、北日本から西日本の日本海側は、落雷や竜巻などの激しい突風に注意が必要だ。日本付近には25日(木)にかけて、上空およそ5500メートルに-40℃以下のこの冬一番の強い寒気が流れ込み、冬型の気圧配置が強まる見込み」。「柳の下にいつもドジョウはいない」。私は、またいてほしいと願っている。