きのうの夜更けは日を替えて、きょう(1月29日・月曜日)の夜明けへ向かっている。起き出して来て、パソコンを起ち上げた。デジタル時刻は、3:25と刻んでいる。机上のテイッシュを取り、鼻を噛んだ。一つ、咳が出た。季節は、確かな足取りで春へ向かっている。しかしまだ、寒気は緩むことなく、わが身体を脅かし続けている。さあさあ、何を書こうか。私には試練の時が訪れている。凡愚に生まれたゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに悩まされている。切ないルーチンである。パソコンを起ち上げさえしなければ、まだ寝床の中にいて、スヤスヤとはいかなくとも、こんな悩みは免れる。鼻汁のたれを嫌って、鼻を啜っている。鼻汁が溜まるとテイッシュを取り、鼻を噛んでいる。防寒冬重装備の分厚いダウンコートのポケットから、スマホを取り出して掲示板を開いた。この行為は、掲示上の現在のカウント数を見るためである。楽しくもあり、切なさもある、わが日課である。よしよし、望んでいる以上のカウント数を刻んでいる。これから、きょうの数値がスタートする。拙い文章の連続だから毛頭、欲はかけない。ご常連の人たちには詫びて、ひたすら感謝するだけである。二か月余の空白ののち私は、カレンダー上の「仕事始め」を機に再始動を試みている。みずからに鞭打ち、みずからを鼓舞し、それゆえかなり力んで書いてきた。幸いにも、きょうまで途切れることなく続いている。一方、もはや息切れ寸前にある。くだらないこの文章がその証しである。文章にかぎらず、83歳のわが身には、「あしたまたね!」という、言葉は存在しない。ここまでは、ネタを引き出す序章である。ところが、長々とここまで書いても、未だにネタが浮かんでこない。それゆえに今のわが心境は、焼けのやんぱちに陥っている。恥も外聞もなく、何かを書こうと決意する。すると、浮かんだのはこのことである。書き殴りの「ひぐらしの記」はあとで、大沢さまのご厚意で製本(単行本)に編まれてくる。その前に私には、うれしさとかなしさ、相同居する校正作業がある。同居する作業とは言え、うれしさは無限大であり、かなしさは限られている。悲しさは、わが文章の拙さと誤りから生じている。ところが、ときにはこんな喜びに遭遇する。(ここのところは、六十歳の手習いにしては、良く書けているかな!)、すなわち、独り善がりのわずかな自惚れである。私は、行きつけの歯医者には予約時間の前に着く。そこには待合室がある。診察券を所定のところへ置くと、やおらソファに腰を下ろす。この先は待ち時間である。ソファの前の小さな卓上には、いくつかの雑誌類や単行本が置かれている。私はこれらの中から、決まって一冊の単行本を取る。そして、診察室から「前田さん、お入りください」と、呼ばれるまで、文章の拾い読みをする。この間は、わずかな時間である。歯医者にかぎらず病医院の待ち時間は、短いほどありがたいものだ。表題に釣られて手にするのは、単行本『九十歳。何がめでたい』(作者佐藤愛子)である。佐藤さんご本人は名だたる作家であり、亡きサトウハチローさんの異母妹でもある。直近の「ひぐらしの記89集」の校正作業をしていると、(あれこのところは佐藤さんの文章に似ているな)と、感じたところがった。疲れ癒しのちょっぴりいい気分になった。挙句には自惚れてみたくなった。「九十歳、何がめでたい」、表題からして文章は、かなり皮肉めいて書かれている。すると文章の共通項には、わが生来のマイナス思考に加えて、へそ曲がりと天邪鬼精神が起因していただけだったのである。こんな馬鹿げたことにでもときには遭遇しないと、わが未熟な文章の校正作業は、そのたびに疲労困憊に陥るばかりである。きょうのこの文章が悪の根源となり、この先のカウント数は漸減傾向を招くかもしれない。ここまで書くあいだ、私は何度机上のテイッシュ箱に手を伸ばしたであろうか。デジタル時刻は、夜明けまだ遠い4:58と刻んでいる。こんな文章は、鼻水を溜めて、何度も鼻を噛んでまでして、書かなきゃよかったのかもしれない。だから、ご常連の人たちには、「ご勘弁な、許してください!」と、声なき声で言って、文章を閉じることとなる。駄文なのに懲りずに、またまた長すぎた。いや、懲りて、あしたは書かないほうが身のためかもしれない。テイッシュが間に合わず、鼻水がポトリ落ちた。何度か、咳が出た。